- 2014年10月17日 13:24
- 国民新聞
『国民新聞』平成26年9月5日
応仁の乱から豊臣秀吉の天下統一まで、約百年間が戦国時代である。この間の朝廷・皇室の歴史は、実はあまり研究が進んでいない。それは戦前では皇室尊崇史観のため、戦後では左翼史観のために、研究の価値が乏しいと考えられたからである。例えば、戦前は戦国時代の朝廷について、「式微」とういことが頻りに言われた。式微とは「詩経」に由来する言葉で、甚だしい衰退を意味する。つまり皇国史観の立場からは、重要性のない時代とされてしまったのである。
戦国時代の朝廷・皇室が経済的に見て、その歴史の中でも最も窮迫した時期であったことは、間違いない事実である。応仁の乱以前は、室町幕府からの経済的援助があったが、乱後は幕府自体が没落してしまった。したがって律令国家以来継続してきた重要な儀礼である、いわゆる朝儀が行えなくなった。京都が戦場になったため、朝廷の家臣である公家衆の多くも、地方に疎開してしまう状態となった。江戸時代までの皇室では、天皇は崩御以前に引退して上皇になるのが通例だが、戦国時代の四人の天皇、後土御門・後柏原・後奈良・正親町のうち、上皇になったのは正親町天皇だけである。後柏原天皇の即位礼は二十年後であり、崩御後の葬儀も直ちにできなかった。
ただし戦国時代の朝廷は、決して沈滞していたわけではない。反対に生き生きと活動していたと言える。戦国時代そのものが、エネルギーに溢れた活動的な時代なのだが、朝廷の場合は更に重要な条件があった。外部からの援助がなくなった以上、自分自身の力で生きざるを得なくなったということである。この点が、前後の時代と決定的に異なる点である。室町幕府が健在な時代には、幕府から援助があったし、秀吉政権以後徳川幕府の時代になれば、朝廷の経済は完全に武家政権の丸抱えとなるからである。
律令国家以来の朝儀が廃絶しても、朝廷で日々行われる行事は結構あった。その中心は文化的な行事である。すなわち和歌や連歌や楽などの、天皇が主催する会合である御会が頻繁に行われた。また生活行事と言うべきもの数多くあり、これらは武家社会とも共通するもので、さらに戦国時代に全国的に民間まで伝播する。いわゆる伝統的な年中行事と言われるものである。
室町時代の文化と言えば、日本史教科書には足利義満の北山文化と同義政の東山文化が出てくるが、これは武家独自の文化ではなく、朝廷の文化を武家側が吸収して成立したものである。それが可能になったのは、室町幕府は京都に存在し、しかも御所と幕府は近隣の関係にあり、両者の交流は極めて煩雑に行われていたからである。
要するに戦国時代の朝廷は、小規模の組織であるが、緊張した時代背景のもとに、自立して自己の生き残る道を、懸命に歩んだと言える。それが文化に生きる朝廷の在り方であって、現在の皇室にも連なっているのである。そのことを明確に示す一つの重要行事がある。それは現在の正月に開催される歌会始である。和歌を披講という形で読み上げるこの行事は、文亀二年(一五〇二)に後柏原天皇によって始められ、以後ほとんど中絶することなく、五百年以上に渡って継続している。
戦国時代に鍛えられ蓄えられた朝廷の文化の力は、武家政権の経済的支援を受けると、八条宮智仁親王の桂離宮、後水尾天皇の修学院離宮として、近世初期に一挙に開花するのである。
■酒井信彦(さかい・のぶひこ) 元東京大学教授。1943年、神奈川県生まれ。70年3月、東大大学院人文科学研究科修士課程修了。同年4月、東大史料編纂所に勤務し、「大日本史料」(11編・10編)の編纂に従事する。2006年3月、定年退職。現在、月刊誌でコラムを執筆。著書に『虐日偽善に狂う朝日新聞』(日新報道)など。夕刊フジで今年4、7月、『朝日新聞研究』を連載する。自由チベット協議会代表、主権回復を目指す会顧問。
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