『月刊日本』2018年8月号 酒井信彦の偽善主義を斬る 2018年7月22日
ロシアでワールドカップ・サッカー大会が開催され、日本も参加したために、連日にわたって大量の報道が繰り広げられた。結局、戦前の予想を裏切って、予選リーグを通過したものの、トーナメント第一回戦で敗退する結果となった。この間、西野監督の采配については、評価したり批判したり、手のひら返しが繰り返されて、まことににぎやかのことであった。この報道の在り方は、あまりにも騒ぎすぎであると、言わざるを得ない。
ワールドカップ・サッカーは、ナショナリズムを発揚する舞台になっていることは、現実問題として存在しているだろう。その意味で今度の大会において、極めて興味深い出来事があった。6月22日に行われた、スイス対セルビア戦で、スイスのシャキリとシャカの両選手が、ゴールを決めた際に、両手を胸の前で交差するポーズをとった。この両選手はスイス国籍ではあるが、旧ユーゴスラビアのコソボの出身で、アルバニア系であるという。両手の交差は、アルバニア国旗にある双頭の鷲をイメージしており、これはアルバニア・ナショナリズムの発揚であるわけで、とくに相手がセルビアであったことがポイントである。本人たちは説明しなかったようだが、結局、25日になって国際サッカー連盟の規律委員会は、両選手に1万スイスフラン、さらにもう一人に5千スイスフランの罰金を言い渡した。また事前に緊張を高める言動のあったセルビア側にも、それなりの罰金が科されたという。故国を離れても、民族意識を強固に持ち続ける人々が、この世界には存在するのである。
ところで、朝日新聞は日本の新聞の中でも、とびぬけてサッカー報道に熱心で、大会開催中はスポーツ面とは別個に、「サッカー」面を特設し、連日巨大カラー写真を載せ、大報道を展開している。23日の夕刊と24日の朝刊に、このアルバニア系スイス国籍選手の問題を取り上げているが、とくに24日の吉田純哉記者による記事が注目される。同記者は、すでに4年前に両選手にインタビューしたことがあり、「セルビア戦で見せたあのポーズは、国際サッカー連盟が禁じる政治的宣伝だった、とは思えない。故郷はいつだって、誰にとっても特別だ。たとえ住んでいなくても、故郷に認めてもらいたいー。そんな心の叫びだったのではないだろうか」と、選手の行動に対して極めて同情的である。
また、前回優勝で今回も優勝候補の筆頭に挙げられていたドイツは、予選リーグで無残に敗退した。とくに後半ロスタイムに2点を奪われた、最後の韓国戦の敗北が印象的であった。朝日は6月29日朝刊で、このドイツの敗北を共同電で報じているが、それは「前回王者のドイツは無得点で韓国に敗れ、F組最下位で大会を去った。日本では不屈の『ゲルマン魂』をあがめられてきた強豪らしからぬ気迫に欠ける戦い。主将のGKノイアーは『闘志が不足していた』と認めた。」とある。そしてこの記事の見出しは、「欠けたゲルマン魂」である。日本のナショナリズムに関しては、極めて批判的な朝日新聞も、ナチスの「ゲルマン民族至上主義」を想起させる、「ゲルマン魂」は容認するらしい。
このドイツの敗北と、日本のベルギー戦での敗北は、よく似ていないだろうか。後半において、大きく2点もリードしながら、最後で3点も続けて奪われた。これは結局、精神力の問題と言うしかない。女子サッカーをなでしこジャパンと言うのに対して、男子のそれを「サムライジャパン」と言ったりする。しかしそんな表現をしなくても、日本人の精神力を表現する言葉として、「大和魂」という言葉が立派にあるではないか。しかし今日、大和魂は完全な死語になってしまっている。使われるにしても、それは悪い意味で否定的に使われるだけである。先の、アルバニア系スイス国籍のサッカー選手の例は、現在の日本人とは、全く逆の意識の持ち方だといえるだろう。日本は国家として一応立派に存在しながら、国家意識・民族意識を、ものの見事に喪失しているからである。
今日の日本では、正当なナショナリズムが害悪視され、サッカーやオリンピックなど、スポーツの場面に限定して許容されている。「スポーツだけのナショナリズム」である。たとえワールドカップ・サッカーで優勝したとしても、一体それがどれだけの意味があるのだろうか。日本の女子は、とっくに堂々と優勝している。アメリカの保護国状態に安住して、自立の根本である国防意識を喪失し、歴史戦に完敗して、民族の名誉と誇りを、無茶苦茶に踏みにじられている日本人が、スポーツの時にだけ、「ニッポン・ニッポン」と絶叫するのは、まことに馬鹿馬鹿しい限りである。
← 酒井信彦 著『虐日偽善に狂う朝日新聞―偏見と差別の朝日的思考と精神構造』(日新報道 2013/08出版)
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