『月刊日本』2021年10月号 酒井信彦の偽善主義を斬る 2021年9月22日
8月15日は終戦の日であるが、朝日新聞の日曜日のコラム「日曜に想う」は、編集委員・曽我豪の担当であった。そのタイトルが「終戦とはごまかしのことばだ」とあるのが目を引いた。終戦記念日のコラムのとしては、なかなか興味深いタイトルといえるだろう。
このコラムはまず冒頭で、「76年前の今日は終戦、いや、敗戦の日である。その事実をただちにごまかさず国民へ訴えようとした首相がいた」という。その首相は誰かというと、続けて「1945(昭和20)年8月17日、太平洋戦争を終結させた鈴木貫太郎首相の後を襲って陸軍大将で皇族の東久邇宮稔彦王が首相に就任、初閣議を開く」とあるように、その首相とは東久邇宮首相である。そしてその閣議の様子を以下のように説明している。
「初閣議では、国民に向け『今後に対処する覚悟』と題した声明を出すことが決まる。元朝日新聞副社長で今の官房長官にあたる内閣書記官長に就いた緒方竹虎氏が自ら原文を起草したが、そこに『終戦』の言葉があった」。
続けて「『終戦とはごまかしのことばだ』と断じたのが首相である。『いたずらに国民の覚悟を弛緩せしめるだけだ。これは敗戦の事実を認めてよろしく〝敗戦〟とすべきだ』と言葉の修正を求めた」。
さらに「軍部の反発を恐れた下村定陸相が『それでは統帥の責任をとりたくてもとれませぬ』と強硬に反対、結局は原文のままとなった。ただ、首相の意思に共感してその言葉を記録に残した閣僚もいた」というのである。
この閣僚は誰かというと、このコラムでは次のように説明されている。「目撃談は、この夏に復刊された「松村謙三 三代回顧録」(武田知己編 吉田書店)に出てくる。厚生相だった松村氏は、首相の主張の方が『かえって国民に反省の認識を正しく与え、復興精神を緊張せしめたかもしれぬ』とつづる」。 つまりこの閣僚とは、当時の厚生大臣であった松村謙三である。復刊とあるから、新事実ではないわけだ。
ところで曽我コラムでは、末尾の近くで次のように言っている。「既存の権力と価値観が崩壊した混沌の夏、国民に対する『ごまかし』を拒もうとし、国民と同じ『しろうと』の目線に立とうとした首相、閣僚、官僚がいたのである。コロナ禍が続く76年後の夏、混沌の最中は同じでも、為政者の心構えの彼我の差は改めて書くまでもない」と、現在の政権を貶めることを忘れない。
曽我は、「終戦」は「ごまかしのことば」だと断言するのであるが、それでは朝日新聞は今までさんざん「終戦」と言って来たのであるから、読者をだまし続けてきたことになる。8月15日の曽我コラムが掲載された同じ日の朝日新聞社説、「戦後76年の夏 問われ続ける主権者の覚悟」の書き出しは、「国の内外の人々に大きな苦難をもたらした第2次大戦の終わりから、76年になる」であるから、すなわち「終戦」である。8月15日以後も、朝日新聞には「終戦」ということばが溢れている。「敗戦」という言葉がない訳ではないが、本当の戦争に関しては、極めてはまれであって、多くは「コロナ敗戦」といったものである。朝日は今後、決して「終戦」と言わずに、必ず「敗戦」と言い続けるのであろうか。
このコラムは、東久邇首相の意見を正しいと賞賛して、それが否定された責任を、下村陸相に転嫁するのであるが、最も大切な事実をそれこそ「ごまかし」ている。それは朝日新聞の戦争責任である。そもそもの「終戦」という言葉の発明者こそ、内閣書記官長であった緒方竹虎なのである。つまり緒方は首相に要求されても、「終戦」を「敗戦」に修正しなかった。すなわち書記官長は首相の意見を封殺したのであるから、東久邇内閣の実権を握っていたのは、朝日人間である緒方竹虎だということになる。
なおこのコラムには書かれていないが、この内閣で緒方は書記官長だけでなく、情報統制の元締めである内閣情報局総裁も兼ねていた。緒方が情報局総裁となったのは、戦争中からであり、東条英機内閣に代わって誕生した小磯国昭内閣において、緒方は国務大臣・内閣情報局総裁になっている。さらに、小磯内閣と東久邇内閣の間の、鈴木貫太郎内閣においては、やはり朝日新聞副社長であった、下村宏が情報局総裁になっている。朝日は戦中から戦後にかけて、情報局総裁という権力の中枢に居座っていたのであり、報道によって国民を戦争に駆り立てただけでなく、報道統制によって真実を隠蔽していたのである。ここにこそ朝日新聞の巨大な戦争犯罪・戦争責任がある。しかし朝日はそれを、少しも反省しようとしない。
← 酒井信彦 著『虐日偽善に狂う朝日新聞―偏見と差別の朝日的思考と精神構造』(日新報道 2013/08出版)