『月刊日本』2022年8月号 酒井信彦の偽善主義を斬る 2022年7月22日
最近はコロナ騒ぎの上に、ウクライナ戦争も勃発して、殆ど忘れられた状態になっているが、本年2022年は、日本が中華人民共和国と国交を成立させてから、50年となる節目の年であった。
アメリカはベトナム戦争で行き詰まり、一方中共は文化大革命の混乱が継続中だったことにより、米中の接近が計画され、1971年のキッシンジャー訪中となった。その下準備の上で、72年2月にアメリカ大統領ニクソンの訪中が実現した。
このニクソン訪中に驚いたのは日本で、ちょうど沖縄返還を置き土産に引退した、佐藤栄作の後継を争う自民党総裁選挙で、以前から日中関係改善に熱心であった、田中角栄が福田赳夫を破り総裁となった。ただしこれにはメディアの応援が大きかった。特に朝日新聞は、国交成立以前の記者交換の時代に、文革報道で唯一追放を免れたが、それは中国に都合の悪いことは報道しないと言う、広岡知男社長の「歴史の目撃者論」の成果であった。
田中総裁は7月5日に誕生し、翌々日には田中内閣が成立した。以後、急速に中国との交渉が進展したが、そこには公明党の竹入委員長の訪中が関与していた。田中首相は、9月25日に訪中して、国交を成立させて同29日は共同声明が出された。驚くべき拙速外交の見本と言うべきもので、その後に巨大な禍根を残すことになった。ちなみにアメリカが中国と国交を成立させたのは、はるかにのち1978年12月のことである。
その後、「日中友好」のスローガンが、声高に叫ばれて、政府は巨額のODAを提供するようになり、それは主に中国の交通設備などインフラ整備に投入されていった。その分中国は自国で賄わなくてもよくなり、その資金は結局軍備に投入されて、世界第二の軍事大国に成長していったのである。つまり日本はお金を出して、わざわざ敵国を育ていったのであり、自身で日本の危機を招来していたわけである。
田中拙速外交が後世に残した「負の遺産」は、実に巨大なものがあるが、その中でも重要なものに、歴史問題がある。それが外交問題として発生したのは、1982年の第一次教科書事件であった。この年の教科書検定において、「侵略」の表記が「進出」に書き換えられたと、6月26日にメディアが一斉に報じた。これに対して中国が抗議してきが、その根拠としたのが、日中共同声明に違反しているという理由であった。
政府は8月26日に至って、政府の責任で是正すると約束し、結局、教科書検定に当たっては、近隣諸国の人々の感情に配慮すると言う、「近隣諸国条項」を作ってしまった。これを主導したのは当時の鈴木善幸内閣の宮沢喜一官房長官であった。ところが「侵略」から「進出」への書き換えは、まったくのフェイクニュースであったのである。
教科書事件はその四年後86年にも再現する。第一次事件を憂慮した保守系の人々が、高校教科書を作り、検定に合格していた。それをメディアが反動教科書と騒ぎ出し、案の定、中国・韓国が抗議してきた。それに対して時の中曽根康弘・総理大臣は、検定をやり直させたのである。つまり政治権力の検定への直接介入であり、これこそ家永教科書訴訟批判したことなのに、すんなりと認められてしまったのである。
またこの年には、靖国参拝問題が起きる。この前年、中曽根首相は諮問委員会の議をへて靖国公式参拝を決行した。これに対して中国から抗議を受けたために、この年からまた休止してしまったのである。
その後歴史問題では、1900年代から慰安婦問題が出現して、日本を攻撃するのは韓国が主役となる。一旦手に入れた攻撃の武器は、30年近くにわたって使用されてきて、最近は徴用工問題が主となっている。つまり、一旦誤った拙速外交の害毒は、極めて長期にわたって、継続するものなのである。最初の過ちが、膨大な被害を生み出す、典型的な事例であると言ってよい。
歴史問題が問題化するメカニズムというものがある。まず日本のメディアが騒ぎ出し、それに基づいて中国・韓国が日本政府に抗議して、国際的な外交問題に発展させ、それに対して日本政府が穏便に済ませようと譲歩してしまう、というメカニズムである。つまり歴史問題には、最初と最後に日本人が深くかかわっているわけである。
しかも最大の問題は、日中国交50年、歴史問題勃発の40年という、負の遺産として記憶すべき年であるのに、日本人の責任が少しも回顧・反省されていないことである。歴史問題による日本人への洗脳が、政府を含めてあらゆる日本人に、深く浸透している明白な証拠である。
← 酒井信彦 著『虐日偽善に狂う朝日新聞―偏見と差別の朝日的思考と精神構造』(日新報道 2013/08出版)
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