ブログ管理者から
酒井信彦先生に過去に発表された論考を掲載するにあたり、訂正並びに補足の必要などを伺った。それに対し、下記のお答えを頂いたので、一連の論考をそのままに順次掲載していきます。
「私の論考については、付け足しや補足は必要ありません。中味については、今でも十分通用すると思いますし、客観的状況としては、ずっと悪くなっているのであり、遥かに理解しやすくなっているはずですから」(酒井信彦)
『チベット問題入門(上)』 酒井信彦(さかいのぶひこ・東京大学助教授)
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拓殖大学 一九八九年 海外事情五月号 抜刷
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一、はじめに
一昨年の秋以来、チベットの人々の独立を求める動きが高まっている。大規模なデモは今まで三度にわたって起きており、次第に拡大して今年の三月には戒厳令の発布にいたった。それにともなって日本でも一度忘れられていたチベット問題の存在が認識され、事件そのものだけでなく独立要求デモの背景に言及した記事なども新聞で見られるようになった。しかしその内容はというと極めて不完全であり、チベット問題を正しく理解するためにかえって有害と思われるものもある。
そこで本稿ではチベットの領域・人口・歴史などチベット問題を理解するために最も基盤となるべき知識を提供しようとするものである。
二、チベットの領域
一般にチベットと思われているのは、中華人民共和国(以下適宜中共と略す)の一級行政区の一つ「西蔵自治区」のことである。日本ではこれを「チベット自治区」と表現している。ところで、この西蔵自治区は本当のチベットの領域の半分に過ぎないといったら、皆さんは驚かれることだろう。西蔵自治区は一二〇万平方キロメートルという広大な面積(ただしこの中には中共が実効支配していない部分を含む)を占めているが、その他に約一〇〇万平方キロの領域がチベット人の固有の領域として存在しているのである。それを知るためには、中共の二級、三級の行政区に注目しなければならない。省と同レベルの「民族自治地方」が「自治区」であるが、省の内部の地区に相当する民族自治地方を「自治州」といい、そのまた下位の県に相当する民族自治地方を「自治県」という。現在中共には五つの自治区と三一の自治州、そして一〇〇を越える自治県が存在している(注1)。これらの地域は広大で、民族自治地方は中華人民共和国の総面積九六〇万平方キロの六二・五%埧すなわち六〇〇万平方キロに達するという(注2)。
さてチベット人(中共では「蔵族」と表現している)の自治地方は、自治区が一つ、自治州が一〇(ただしその一つはモンゴル人との共同の自治州)、自治県が二つある。それらを列挙すると次のようになる(注3)。
1西蔵自治区
2青海省海北蔵族自治州
3同省黄南蔵族自治州
4同省海南蔵族自治州
5同省果洛蔵族自治州
6同省玉樹蔵族自治州
7同省海西蒙古族蔵族自治州
8甘粛省甘南蔵族自治州
9同省武威地区天祝蔵族自治県
10四川省阿埧蔵族自治州
11同省甘孜蔵族自治州
12同省涼山彝族自治州木里蔵族自治県
13雲南省迪慶蔵族自治州
なお別提の地図は、青海省内における六つの自治州の区分と二つの自治県の記載は略してある。西蔵自治区自体、中共の一級行政区として新彊ウィグル自治区(一六〇万平方キロ)に次ぐ面積を有しているが、チベット人の自治地方としてその他に一〇の自治州と二つの自治県が存在することは、日本ではほとんど認識されていない。全国にある三一の自治州のうち、実に三分の一がチベット人の自治州であることは注目される。チベット人は中共の五五の非漢民族=ノンチャイニーズの中で、最も多くの自治州を有する民族であるが、問題はそれだけに止まらない。チベット人の次に多くの自治州を持つのはミャオ(苗族)で七つの自治州を有しているが(注4)、チベット人の自治州とミャオ族の自治州を比べてみると顕著な相違があることがわかる。第一にチベット人の一〇の自治州のうち、他民族との共同の自治州は青海省の海西蒙古族蔵族自治州一つであるのに対して、ミャオ族の自治州は単独のものは一つもなく、すべて二ないし三民族共同の自治州である。第二に貴州省・雲南省などに存在するミャオ族の自治州は面積的に大きなものはないが、チベット人の自治州には面積的に大規模なものがいくつもある。この点については後にまた触れるつもりである。要するにチベット人の自治地方は、それ自体広大な西蔵自治区の外に、単独で大規模な自治州を何個も有している点で、他の民族には見られない明白な特徴を持っている。
青海省は一級行政区の中で新彊ウィグル・西蔵・内蒙古の三つの自治区に次ぐ広大な面積を占めている。すなわち省と名付けられた一級行政区の中では最大の七二万平方キロという面積を有し、これは日本の面積の約二倍達する。この青海省の面積のほとんどは、先にあげたチベット人の六つの自治州によって占められているのである(注5)。このように自治州の比率の高い省は他にはない。そのうち最大の面積を占める海西蒙古族蔵族自治州(三二万平方キロ)は、名称のとおりチベット人単独の自治州ではない。しかしこの地域は基本的にチベット高原であって、チベット人が居住していたところにモンゴル遊牧民が進出してきたのであり、地理的・歴史的にいってチベットと考えて差しつかえない。なおこの自治州は一九八五年四月まで「海西蒙古族蔵族哈薩克族自治州」と称していたものを改めた(注6)。極端に人口の少ないカザフ人と共同の自治州とする不自然さをようやく解消したのだが、チベット人より人口の少ないモンゴル人の方をネーミングで先にしている。このような点および自治州の設定そのものに、青海省におけるチベット人の位置をことさらに低めようとする政治的意図が感じられる。
青海省には六つの自治州に含まれない地域もわずかながら存在する。それは省都である西寧市とそれに隣接する海東地区とである。そしてこの地域には現在極めて多くの漢族人口が住むようになっている。しかしここも立派にチベットの領域といって間違いではない。青海省で最も大きなチベット仏教寺院であるクンプン寺(タール寺)は、海東地区の湟中県に存在する。その上この地は現法王ダライ・ラマ一四世の出生地でもあるのである。したがって青海省を全体としてチベット人の領域と考えて差しつかえない。省というのは清代に直轄地だったところの名称であるが、青海省の場合そうではない。青海省が出現したのは実に一九二八年(昭和三年、民国一七年)のことなのである。しかも中華民国政府は実際には青海省を支配できなかった。
甘粛省は不思議な形をした省で、その形はウェイトトレーニングに使うダンベルに似ている。握りに当たる部分にシルクロードが通っており、北西部分東南部分とをつないでいる。面積はかなり広く、三九万平方キロというから日本全体より大きい。南東部のさらに南西の角の部分は北と西を青海省、南を四川省に接する地域で、ここが甘南蔵族自治州(四万四〇〇〇平方キロ)である。チベット仏教の大寺院ラブラン寺が存在する。
四川省も面積の大きな省である。省としては青海省に次ぐ大きさで五六万平方キロの面積がある。ただしここには阿埧(アバ)と甘孔(カンゼ)という二つのチベット人自治州があり、その二つを併せた広さは二三万平方キロを超えるのだから、四川省の半分は実はチベットであるといって間違いない。この二つを併せた面積は日本の本州よりも大きいし、その一つ甘孔蔵族自治州だけで一五万五〇〇〇平方キロもある。中共の沿岸地方の省は一〇万平方キロ程度のものが多いから。これらの省より甘孔蔵族自治州ははるかに大きく、さらにネパール(一四万一〇〇〇平方キロ)やバングラデシュ(一四万四〇〇〇平方キロ)といったアジアの独立国より広いのである。
雲南省は支那本部の西南の隅で最も多種類の非漢民族諸民族の居住地であるが、その北端四川省と西蔵自治区に接する部分に迪慶(デッチェン)蔵族自治州(二万六〇〇〇平方キロ)がある。この自治州にはアジアの大河である揚子江とメコン河の上流にあたる金沙江と瀾滄江が流れており、金沙江は北から流れて来た流れをここで東方に転ずる。以上で西蔵自治区以外のチベットの領域を説明した。なお二つの自治県については記述を略す。
さて別掲の地図をみていただければわかるが、西蔵自治区と青海省そして他の四つの自治州は、相互にすべて隣接している。これは地図には記入していないが、二つの自治県についても同様である。つまりチベット人の自治地方は、一三もの行政単位に分割されているのだが、飛び地はまったくなく、全体で一つの地域にまとまっているのである。これはミャオ族など複数の自治地方を持つ他の民族の場合と大きく異なった特徴である。では、チベット人の自治地方はなぜこのようにみごとに集中して存在しているのだろうか。それには重大な理由があるこの地域こそ、平均海抜が四〇〇〇メートルを超える一大高原地帯として、中華人民共和国の他の地域と明確に区別された地域だからである。そのことは中共の地理の概説書(注7)には必ず記載されており、ここを「青蔵高原」と名付けている。青海省の青と西蔵自治区の蔵を組み合わせたネーミングだが、四川省の西半や甘粛省・雲南省の一部も含まれることはもちろんである(なお自然地理区分としての青蔵高原には新彊ウィグル自治区の一部も入る)。日本人の中にも、この中共のネーミングに迎合して、この高原のことをわざわざ「青海・チベット高原」と記したりする人を見かけるが、これは明らかな誤用である。この高原全体が基本的にチベット人の自治地方、すなわちチベット人の世界なのであるから、それは当然「チベット高原」と呼ばなければならない。チベット高原全体のチベット人の領域を、西蔵自治区(日本でいうチベット自治区)と明白に区別するために、以下「チベット全土」と呼ぶことにしよう。
では次にチベット全土がどのような高原地帯であるかを見てみよう。青海省の省都西寧は省域の東のはずれにあり、そのこと自体、青海省に対する漢人の開発の新しさをしているが、その西寧の標高は二〇〇〇メートルを超えており、ここが完全にチベット高原の一部であることがわかる。四川省の省都である成都の標高は五〇〇メートルにすぎず、この地は古くから漢民族によって開発されている。ところが成都から直線距離で二〇〇キロメートルも離れていないところに、ミニヤコンカという高山があり、その高度は実に七五〇〇メートルを超えている。一般の地図を見ているとわからないが、成都のすぐ西からチベット高原は始まっているのであり、四川盆地は四川省の東半に存在し、成都はそのまた西のはずれにあるのである。雲南省の迪慶蔵族自治州と西蔵自治区との境界にある梅里雪山は標高六七四〇メートル、同自治州の東南端から十数キロ、江納西(ナシ)族自治県中にある玉竜雪山は五六〇〇メートルの高度がある。
さてこのチベット全土を、チベット人自身は歴史的に大体三つの地域に分けて捉えてきた。すなわちウツァン・アムド・カムの三つの地域区分である。(別掲地図参照)。ウツァンは東部を除く西蔵自治区の大部分、アムドは青海省と甘南自治州・阿埧自治州の部分、カムは甘孔自治州・迪慶自治州と西蔵自治区の東部(旧チャムド地区)の部分である。なおウツァンは「ウ」と「ツァン」を合わせた言葉で、「ウ」はラサを中心とした地域、「ツァン」はパンチェン・ラマの居住地であるシガツェを中心とした地域を指す。ウツァンを漢字で表記すると、鳥斯蔵とか衛蔵とか書かれた。すなわち蔵とはツァンのことで、西蔵という呼称はここに由来する。つまり西蔵という名称は、ことさらダライ・ラマ政権を無視してパンチェン・ラマの存在を重視しようとする政治的意図が濃厚に感じられるネーミングであるといえる。
以上のように本当のチベットの領域は、西蔵自治区一二〇万平方キロとその他の地域約一〇〇万平方キロ(青海省七二万平方キロ、甘南自治州四万四〇〇〇平方キロ、四川省の二自治州二四万平方キロ、迪慶自治州二万六〇〇〇平方キロ、二つに自治県は略す)を併せた二二〇万平方キロである。これはソ連カナダに次いで世界第三位の面積大国中華人民共和国の総面積九六〇万平方キロの二三%に当たる。すなわち中共の領土の四分の一は実はチベットなのである。しかもこのチベット全土は現在一三の「民族自治地方」に分割されてしまっているが、先述したように空間的には完全にまとまっている。したがって全体をチベット人の自治区にしたとしても少しも問題はない。青海省にモンゴル人との共同の自治州が一つ存在するが、この自治州においてモンゴル人人口よりチベット人人口の方が多いし、なおモンゴル人の立場を尊重しようとするなら、チベット人の自治区の内部にモンゴル人自治州を設ければよいのである。現に新彊ウィグル自治区の中にモンゴル人自治州がある。中共政府がチベット全土を一つの自治区にしないのは、民族自治がいかに形骸だけで実質がないか、チベット人の団結を恐れているかを雄弁に物語っている。
チベットの広大さは世界の中において考えるとよくわかる。現在世界には約一七〇の国々が存在するが、その面積が二〇〇万平方キロを超える国はわずかに十二ヵ国しかない。アジアでは中共・インド・サウジアラビアの三ヵ国のみである。したがってチベットがこの真の領域で独立したとすれば、サウジアラビア(二一五万平方キロ)を抜いてアジアで第三位の、世界でも一〇番目ほどの面積大国が出現することになる。なお新彊ウィグル自治区と内蒙古自治区を併せた面積は二七〇万平方キロに達するから、チベット・モンゴル・ウィグル三民族の自治地方が中華人民共和国の支配から離れれば、その領土は半減することになる。
三、チベットの人口
次にチベットに関する基礎知識として人口の問題をみることにしよう。中華人民共和国のチベット人人口は、どのくらいいるのだろうか。中共政府の発表では、一九八二年の人口調査によるとそれは三八四万人である(注8)。地域的な分布は、西蔵地区に一七六万、四川省に九二万、青海省に八五万、甘粛省に三〇万、雲南省に一〇万で、その他はごく少数である。大まかにいえば全体で四〇〇万人、半数が西蔵自治区にいることになる。ただし人口については亡命チベット人の側には異論があり、中共政府の公表する数字は少なすぎるとしている。亡命チベット人の人々は、チベット人の人口を以前から六〇〇万人といってきている(注9)。近年の資料によるとその地域的分布は、自治区に一九〇万、青海省に八〇万、その他の四川・甘粛・雲南省に三三〇万と推定している(注10)。中共側の数字と亡命チベット人側の数字とでは、自治区と青海省については大きな開きはない。二〇〇万の差は、四川省を中心とする地域の食い違いに基づいている。この点について極めて興味深いのは、最近の北京週報英語版で亡命チベット人の主張とそっくりのチベット人人口に関する記事を載せていることである(注11)。これがチベット人口の正確な実態を表しているか、注意深く見守っていかなければならないが、チベット人の側に基本的に信憑性があり、中共側の数字は意図的に操作されている可能性が強いことは容易に想像できる。
チベットにおける人口に関しては、漢族の移住について取り上げなければならない。亡命チベット人はチベットは漢族(日本でいう「中国人」)の植民地になっていると非難しているが、その証拠としてチベット全土における大量の移住者の数字を発表している(注12)。それによるとチベット全土の漢族は七五〇万人、地域的分布は自治区に二〇〇万以上、青海省二五〇万、残りの四川省を中心とする地域が三〇〇万となっている。チベット全土で六〇〇万のチベット人より多い七五〇万の漢民族が移住していると考えるわけである。それに対して中共側の数字では、チベット人の自治地方全体でそこに居住する漢人は、一五四万にすぎないとする(注13)。チベット側の数字と六〇〇万の大差がある。中共側の数字の地域分布は、自治区に九万、青海省に五〇万、その他で九五万である。これは一九八二年の数字であるが自治区についてはその後減少し七万になっていると公表している(注14)。六〇〇万の食い違いは、右の三地域において二〇〇万ずつであるが、青海省については実はほとんど差はない。それは中共政府の数字は六つの自治州だけで、西寧市と海東地区の漢族人口を含めていないからである。一九八二年の人口調査において、中共政府は青海省全体で二三〇万の漢族がいると公表しているから(注15)、チベット側の数字と二〇万の差であるにいすぎない。
四川省の数字はともかくとして、西蔵自治区の漢族人口七万という現在中共政府がくり返している数字には極めて疑問がある。七万とすると自治区における漢族人口の比率は三%台という低率になるが(注16)、それは現状から考えてとても納得できないからである。たとえばラサにおいては観光化政策とともに商店・食堂などに漢人の進出がめざましく、チベット人の失業者が増加している。今年三月の独立要求デモで漢人商店が焼き打ちされたのは、そのような状況がいかにチベット人の反感を買っているかよく示している。
中華人民共和国の非漢民族五五民族のうち、一九八二年の人口調査によれば、チベット人は七番目に人口の多い民族である(注17)。最も多いのは一三〇〇万を超えるチワン族、次いで七二〇万の回族、五〇〇万台にウィグル・イ・ミャオ、四五〇万の満州人と続いている。したがってチベット人六〇〇万という数字が正しいとすれば、三番目に多いということになる。四〇〇万ないし六〇〇万という人口は、では世界的に見てどれほどの規模の人口なのであろうか。現在世界にある約一七〇ヵ国のうち、三分の一は人口一〇〇〇万以上の国、三分の一は一〇〇万以下の国である。つまり残り三分の一は人口一〇〇万から一〇〇〇万の間の国々で、これが世界的にみて国家として平均規模の人口なのである。したがってチベット人数百万という人口は、一つの国家として決して少なすぎる人口ではないといえる。
右のことに関連して中共で使われる「少数民族」という言葉について、筆者の考えを述べておきたい。チベット人の人口は決して少数ではない。しかし中共ではチベット人も少数民族とよばれる。それは中共に存在する五六の民族のうち、人口で九〇%以上を占める漢民族以外の五五の民族を一括して少数民族と呼ぶことにしているからである。つまり中共でいう少数民族の少数とは、漢族と比較して少数という意味なのである。だから人口が一三〇〇万を超えるチワン族も少数民族なのである。しかし漢民族は世界で最大の民族なのだから、漢族と比較すれば他の世界のあらゆる民族は少数民族となってしまうのである。したがって中共で使われる少数民族とは、チベット人のように人口数百万を数える民族を、人口数千、数万の絶対的少数民族と同一視し、その存在をことさらに低めようとする明白な政治的意図によって作られた典型的な差別用語である。日本人の中には中共の少数民族という言葉に引きずられて、チベット問題を少数民族問題、すなわち国内的に解決すべき内政問題と考えている人々が極めて多い。しかしチベット問題の本質は民族独立問題である。
四、チベットの歴史
チベットの歴史と文化はチベット問題を理解する上でも中核的なテーマである。とくにチベットの歴史と文化が中国(シナ)といかに異なっていたかを知ることは極めて大切である。チベットの文化の特異性については、以前から川喜田次郎氏が、「チベット文明」論を主張してこられた。その要旨は、チベットは他の国々にチベット仏教を中心とする文化を輸出し、独自の文明圏を築き上げてきた存在であるから、チベット文明は中国文明・ヒンズー文明・イスラム文明とならぶ、アジアの四大文明の一つであるというのである(注18)。この川喜田説は、近年チベットへの関心が高まるにつれて支持を表明する人々が増加している。ただし本稿では、チベットの文化ないし文明については他に書物も多いのでとくに述べることはしない。また歴史についても、山口瑞鳳氏の著作(注19)など適切な書物もあるので古い時代は略し、以下一三世紀以降のチベットと中国との関係について考えてみることにしたい。というのは中共側の主張では、一三世紀の元朝以来チベットは中国の不可分の領土であり続けたとし、それを現在併合支配している理論的根拠としているからである。
『北京週報』など中共側の公式見解を載せた刊行物では、元朝から以後「中国」は一貫してチベットに対する主権を保持してきたといっている(注20)。しかしこれは本当だろうか。主権という表現も極めてあいまいな言葉だが、一応強い支配権と解釈しておこう。いわゆる中華帝国たる元・明・清の歴代王朝、および中華民国はチベットに対して強い支配権を有していたのであろうか。歴史はそうでないことを証明している。チベットは、元朝以降中共の侵略にいたるまでの期間、独立かあるいは政治的に極めて独自性を保持した状態で存在し続けたのである。
元と清の中華的大帝国が出現したとき、チベットがその広大な版図の中に含まれたことは一般に認められているといってよい。世界史地図帳のたぐいにも、この両王朝の版図のうちにチベットが含められて表されている。しかしこのような帝国は近代以降の国家とはまるで異なる性格の存在である。元朝の皇帝フビライはチベット仏教に帰依し、僧パスパにチベットの統治権を与えた。パスパがチベット文字をもとにしてモンゴル文字の一種パスパ文字を作成したことは有名な事実である。仏教のみならず、チベットの文化がモンゴルの文化に大きな影響を与えているのである。このようなことはチベットに政治的な主体性がなければ起こり得ないであろう。
清の時代、チベットは帝国の版図のうちにあったが、いわゆる支那本部の直轄地とは異なって、モンゴルおよび東トルキスタンと共に藩部と称せられる地域であった。藩部は支那本部のような省は置かれず、現地の人々の自主的統治にゆだねられていた。だからこそ一八世紀以降清の影響下に入ったチベットにおいて、ダライ・ラマ政権が立派に存在するのである。すなわち清代において、モンゴルもチベットも藩部として同一の存在であった。ということは中共政府がチベットに対してその併合支配の正当性を主張するなら、現モンゴル人民共和国たる外蒙古に対してもその領有を主張しなければならない。しかし中共政府はモンゴル人民共和国の存在を認めてしまっている。この点で中共政府の論理はみごとに破綻しているのである。
元と清の中間にある明の時代、チベットは明王朝の権力から完全に独立しており、その版図に入ったことはまったくない。これは歴史の本を読めば誰にでも簡単にわかることである。たとえば高等学校の世界史教科書には、明王朝の領域を示した地図が必ず載っているが、どんな教科書を調べて見てもチベットが明の版図に含められている地図を見出すことはできない。そもそも明王朝の版図は清朝のそれと比較するとはるかに小さく、その安定的な領域は清朝の最大版図の四分の一程度にすぎない。すなわちそれは北は万里の長城、西はチベット高原との境界によって区画されており、明王朝の力はチベット高原におよばなかったのである。
したがって中共政府が、明代にチベットに対して中国の主権を維持していたという根拠は、ダライ・ラマその他のチベットの宗教的・世俗的諸権力に対して、明の皇帝が形式的な任命書を与えた点に求めている。すなわちこのような行為は中華帝国の歴代王朝が、周辺諸国の諸権力に対して伝統的に行ってきた外交政策であり、その相互関係を歴史学では冊封関係と呼んでいる。冊封関係には軽重さまざまな程度があるが、たとえば朝鮮などは強く臣従しずっと属国的状態を保ってきた。聖徳太子以後、中国の歴代王朝と冊封関係を持たなかった日本も、明代には勘合貿易のために明皇帝と足利将軍との間に、極めて軽度ながらも冊封関係を結んでいた。すなわち冊封関係という外交関係を実質的な統治関係だと強弁することは、明らかに歴史の常識からいってまったく成り立たない議論である。
孫文の辛亥革命が成功し清帝国が崩壊して中華民国が成立すると、チベットも独立を宣言して完全に独立する。これ以前清朝末期においてチベットは実質的に独立していたといってよい。日本の僧侶河口慧海が仏典収集のためチベット入りしたのは今世紀初めであり、それはいまだ清帝国の時代である。慧海がチベット入りに当たって大変な苦労をしなければならなかったのは、チベットが鎖国をしていたからである。鎖国をしていたということは、チベットが国であり、ダライ・ラマ政権という権力によって統治された国家であったことを示している。この清朝末期のチベットに対して帝国主義勢力や清朝自身が入り乱れて干渉してくる。そのためダライ・ラマ一三世は二次にわたって長期の流浪生活を送ることになる。しかし辛亥革命後チベットに復帰して、一九一三年一月独立を宣言したのである。
その後中華民国の時代、東チベットに対する干渉は執拗に続いたが、チベットが独立を失うことはなかった。それは日中戦争とチベットとの関係を考えてみれば直ちにわかることである。日本と中華民国との全面戦争である日中戦争において、チベット人は中華民国の国民として日本人と戦ったのか。そのようなことはまったく起こらなかった。それどころかチベット政府は連合国側からの協力要請を明確に拒否したのである。国民政府が南京を追われ四川省の重慶に居を移して後、連合軍はイギリスの植民地ビルマから雲南を通り重慶にいたる援蒋ルートを作った。しかしこのルートが日本軍の作戦によって途絶したとき、連合軍はチベット政府に対して援蒋ルートのチベット通過を要求したが認められなかった。
減満興漢を旗じるしに戦われた孫文による革命は、それが成就したとたんに清帝国をそのまま継承する五族共和のスローガンがとなえられるようになった。しかも建前は共和だが、その実態は漢民族による他民族の吸収合併を目指したものであった。したがって孫文の三民主義の中に、他民族の独立を許さない中華思想、すなわち漢民族の侵略主義的考え方が明白に存在している。しかし中華民国の時代には内戦や日中戦争のために、侵略主義的欲望を実現することはできなかった。中華人民共和国の成立によって漢民族が巨大な軍事力を手中にしたとき、その欲望は一気に爆発してチベット侵略へと向かったのである。
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