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チベット問題入門(下)

ブログ管理者から

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酒井信彦先生に過去に発表された論考を掲載するにあたり、訂正並びに補足の必要などを伺った。それに対し、下記のお答えを頂いたので、一連の論考をそのままに順次掲載していきます。

「私の論考については、付け足しや補足は必要ありません。中味については、今でも十分通用すると思いますし、客観的状況としては、ずっと悪くなっているのであり、遥かに理解しやすくなっているはずですから」(酒井信彦)

 

『チベット問題入門(下)』 酒井信彦(さかいのぶひこ・東京大学助教授)
拓殖大学海外事情研究所 平成元年海外事情12月号抜刷 

七、チベット問題の本質

さて前回「チベット問題入門(中)」の最後のところで述べておいた、チベットの仏教寺院が破壊されたのは「プロレタリアート文化大革命」の時期ではないのだという事実は、チベット問題の本質を理解するために、きわめて需要なポイントである。

チベット問題に限らず、中華人民共和国の現政権の態度としてはっきりしているのは、すべての悪を文革の責任、すなわち「四人組」の責任にしてしまい、その悲劇的な文革はもうすでに終わったのだから、いまは幸福な状態なのだとする論理である。しかし今回の天安門事件でも明らかなように、文革期に行われた極左的偏向のみが問題なのではなく、共産主義支配体制そのものが問題なのである。共産主義による統治に根底的疑問が突きつけられているのであり、それは現在進行中の東欧の激動ぶりを見れば、容易に理解できる。この点については、また後に触れることにしよう。すなわち文革後の「開放」政策は、文革期で疲れ果てた人びとを回復させる意味はあったが、民衆がそれで満足できるものではない。そしてその経済政策自体も、現在完全に破綻に瀕している。

チベットの場合、この共産主義支配体制という悪の上に、さらに異民族支配という桎梏がかせられている。というよりもチベットの悲劇=チベット問題の本質は、まさにここに存在する。そのことについては実は、『北京週報』に載っていた、パンチェン・ラマが生前最後に行った演説(注1)といわれるもののなかに、中共当局がはからずも告白してしまっている。つまり文革は全国五六の民族が共通して蒙った災難であったのだから、「文革による破壊はもっぱらチベット族あるいはチベットに向けられたものとはいえず、ましてや漢族がチベット族の文化を消滅させたとはいえない」としている。とすれば、歴史の真実は逆であったのだから、寺院の破壊は「もっぱらチベット族あるいはチベットに向けられたもの」であり、「漢族がチベット族の文化を消滅させた」ものとならざるをえない。つまりチベット問題の本質とは、漢族がチベットを不当に支配しているという事実に外ならない。この冷厳な事実を直視しない限り、チベットの人びとが何度弾圧されても、命をかけて独立要求デモに立ち上がる理由は、まったく理解できない。

 

八、チベットの現実

一九八〇年以来、チベットにおいても「開放」政策がとられるようになり、一定の自由化が訪れた。それ以前の中共政権下のチベットは、独立時代よりもはるかに厳しい鎖国状態におかれ、チベットに入った外国人はほとんどいなかった。入れたのは中共政権に親しい人びとのなかから選ばれた、極端な「友好人士」だけであった。日本人としては、日本共産党機関誌『赤旗』の高野好久特派員(一九六五年)や、朝日新聞社の秋岡家栄特派員(一九七七年)などであり、これらの人びとは貴重な旅行記を残している(注2)。その内容はいま読んでみると大変興味深い。たとえば秋岡特派員は七七年という文革最末期にチベットを訪れているが、文革以前の寺院破壊はもちろん、文革中の破壊についても、その旅行記『チベットの旅』のなかでまったく言及していない。ところが「開放」政策によって、外国の報道人や登山家、さらには一般の観光客までチベットにくるようになった。そうなれば寺院破壊の惨状を外国人の目から隠すことはできないので、文革による被害として今度は大々的に宣伝しているのである。

「開放」政策以後、チベットに入った日本人の旅行記は数多く出版されている。しかしそこに出てくるチベットの姿は、中共政府側の情報をそのまま事実と信じているものがほとんどである。一九八七年秋、ラサで独立を求める大規模なデモが発生して以後、自分自身の目で見ようとする姿勢を持った著作が、多少あらわれてきたというのが現状である。以下チベットの現実について、いくつかの観点から見てゆくことにしたい。

まず宗教は、文革期に比べれば、明らかに自由になった。文革中は宗教は完全に否定され、ラサに中心に存在するドゥルナン寺(ジョカン)も八〇年までは閉鎖されていた。現在、同寺には、青海省や四川省となっているチベット地域からも、数多くの巡礼がやってきて参詣している。中共政府が公表しているところでは、これは西蔵自治のみの数字であるが、ほとんど破壊された寺院をこの一〇年間に三六〇〇万元の特別金によって修復し、現在「一一四二ヵ所の寺院と宗教活動の場」があるという(注3)。ただしこれはどこまで信用できる数字かはかわからない。そして寺院を修復するのも信仰の場所とするためではなく、その目的はあくまでも観光対象として外貨を稼がせるためである。したがって修復のやり方も拙速を極めた粗雑なものであり、日本の文化財の修復などとはまったく次元の異なった作業であるから、新たな破壊になりかねない。

「開放」政策がチベット、とくに西蔵自治区にもたらした最大の変化は、漢民族の大量の流入であった。新政策の当初には、漢民族の大多数を帰らせるという約束があったが、それはまったく守られず、かえって逆の現象が起きた。中共政府の公表している数と、チベット亡命政府の主張している数との間に巨大な開きがあることは、「チベット問題入門(上)」で紹介しておいた(注4)。それによれば自治区の漢族人口は、中共側の数字だと七万人で人口の三・四%であるのに対し、チベット側の数字では、二〇〇万のチベット人人口に匹敵するとしている。少なくとも中共サイドの七万というのは少なすぎる数字であり、人口一二~三万のラサ市の半分以上は漢族といわれているから、これだけで七万になってしまう。

ラサなどの都市では、チベット人の住んでいる旧市街とは別に漢族の住む新市街が形成されており、それは従来のチベット建築と相違するから一見して判明する。チベット人居住区を素通りした電線が、この漢族居住区に優先的に引かれていることは、今年一一月七日、NHK第一チャンネルで放映されたイギリスBBC制作のテレビ・ドキュメンタリー「ダライ・ラマ――亡命の三〇年――」のなかで報じられていたから、ご覧になった方もおられるだろう。またこれも同じ番組で紹介されていたが、チベットにはおびただしい中共製品が流れ込んでいるだけでなく、それを売る流通業も漢民族が完全におさえてしまっている。チベット人はチベットの民族衣装や、寺院に参詣する線香のようなものまで、漢人商人から購入している。また飲食店や床屋など技術を必要とする職業に漢族が進出し、その反面、チベットの失業者が増大している。

西蔵自治区は、中共の他省と格段に経済格差があり、八七年春パンチェン・ラマが記者会見で公表したところでは、一人当たりの年間収入は三〇〇元である(注5)。そのなかで漢人のインテリ層の収入は高いようで、筆者が得た情報によると、八七年々初の時点で、本土の大学を出た人間の月給が二〇〇元であり、これは本土の場合の二倍だという。ソ連のシベリアと同じような配慮がなされていることがわかる。なお、八六年春ラサ飯店に宿泊した東北大学西蔵学術登山隊の一泊の料金は三〇〇元であった。しかもこれは兌換券のはずであるから、人民元では四五〇元にもなることになる。

次に教育について見てゆこう。中共政府は、チベット併合後教育が飛躍的に充実したことを自慢するのが常である。たとえば次のようにいう。これも西蔵自治区のみの数字である。「一九五一年の平和解放前のチベットには、中学校一校と小学校十三校しかなかったが、現在は小学校二千三百八十八校、中学校六十四校、中等専門学校十四校、大学・高専三校があり、在学生は計十四万八千人に達している(注7)」。ところが八七年春、北京で外国人記者団と会見したパンチェン・ラマは、チベット総人口の七〇~八〇%はいまだに文盲だといっているのである(注8)。学校の数はかりに正しいとしても、いかなる教育の現状であるかが想像できる。また高等教育機関三校という数は、人口の比率から考えたとしても、他の省・自治区に比較して極端に低い数字である(注9)

『北京週報』八八年五月三一日号の、「チベットのために人材を養成――天津紅光中学校を訪ねて――」という同誌陸雲記者の記事には、チベットの実情をよく示している。天津の紅光中学校には三クラス二一四人のチベット人学生がいる。これらの学生は、八五年以後チベットから他の一七の省市の二十数校に送られてきた、約四〇〇〇人のチベット人学生の一部であるという。一七の省市は北は遼陽市から南は昆明市まで全国にわたっている。この事実は二つの意味をもっていると考えられる。一つは、チベットの教育の状況がそれだけ遅れていることである。そして二つめには、優秀な子供を選抜し、親元から引きはなして漢族化教育を徹底させようとの意図が明らかにうかがえる。中共のチベット侵略当時、小さな赤ん坊から青年にいたるまで、多くの子女が中共本土に連れ去られてわからなくなったとは、亡命チベット人が当時から証言していることだが(注10)、その基本的な発想はいまも厳然と存在しているのである。

西蔵自治区においても、チベット語教育に関してはかなりの制約があると思われるが、それ以外の自治州の地域になると、チベット語教育は一層困難になっているようだ。今年春、四川省のチベット地域を旅したチベット文化研究会の小林秀英氏は、チベットの文字をまったく知らない印刷工のチベット青年を確認している(注11)。したがって自治区を含めたチベット全土から亡命政府のあるインドのダラムサラに、子供たちの難民が数多くやってくる。チベット本土ではチベット人として不充分な教育しか受けられないことを心配した親たちが、自分たちは残っても子供だけは亡命させるのである。筆者自身もダラムサラの「子供村」で、このような一〇代後半の若者三人に会ったことがある。なおアメリカのチベット研究家ジョン・アベドンの作成した資料には、チベット全土の一万七〇〇〇人の子供が、九つの地方に三年間送られて教育を受けているという数字がある(注12)

チベットにはどれほどの数の政治犯がいるのか、もちろん正確な数字はわからないが、チベットサイドでは三〇〇〇~四〇〇〇人と推定している(注13)。中共政府の公表では、チベットには刑務所が一ヵ所、労働改造キャンプが二ヵ所しかなく、収容されているのは一〇〇〇人程度、しかもすべて刑事犯であるというのが常である(注14)。ただしそのなかに二八人の「反革命犯」の存在を認めたことがある(注15)。チベットにおける政治犯については、アムネスティー・インターナショナルも確認しており、八四年発行された「チャイナ・バイオレイションズ・オブ・ヒューマンライフ」という冊子には、ロブサン・チョダックとトゥプテン・ケルサン・タルッゲンツァンという二人の事例が載せられている(注16)。二人は独立を訴えるポスターを貼ったり、独立スローガンを叫んだといった罪で逮捕されたのである。中共政府は、「新中国が成立して以来、流刑といった中世的な刑はなくなり、チベット全域で流刑者は一人も探し出せないだろう」といっているが(注17)、本来のチベットの一部である青海省は、ソ連におけるシベリアのごとく強制収容所が林立する地域であることは、あまりにも有名な事実である。なお強制収容所については、フォックス・バターフィールド著『中国人』で詳しく触れられている。

今年六月四日、民主化デモの学生・民衆に向かって中共軍の銃器が火を吹き、世界の人びとに大きな衝撃を与えた。しかし戒厳令にしろ民衆に対する銃撃にしろ、チベットではすでにそれ以前に起きていたことが、あまりにも無視されているのではないだろうか。中共では人間の命の価値は極めて軽い。人権侵害の最高形態が人の命を奪うことだとすれば、チベットは間違いなく、人権侵害の最先進地域である。今年三月の独立要求デモにおける犠牲者の数は、中共側の発表では官憲側一人、チベット人一一人ということになっている(注19)。しかし四月一七日にチベット亡命政府が公表した数字では、このデモの際死んだチベット人は二〇〇人であり、しかもさらに注目すべきことは、戒厳令発布以後の摘発の過程で、八〇〇人が殺されたというのである(注20)。とすれば、三月はじめからこの時点までに約一〇〇〇人のチベット人犠牲者が出ていることになる。

日本におけるデモとはまったく異なって、ラサにおけるデモは本当に命がけである。それは第一にデモ隊に対して官憲側は、積極的に銃撃してくるからであり、第二につかまると徹底した拷問が待っているからである。筆者は今年三月のデモの際、現場に居合わせた日本人学生から直接話を聞いたことがある。それによると、警備側の若者は軽機関銃で撃ちまくることを遊びのように楽しんでおり、スコープ付きの銃で狙撃するのも確認している。なお『北京週報』には、「騒ぎの最中に、分裂主義者は警官に向かって発砲し(注21)」などと書いているが、この学生は宿舎からラサ飯店に忘れ物を取りにいったため、当日ラサの市内をかなり広く歩いた人物だが、チベット人が銃を持っている姿などまったく目撃していない。

またこの学生は街頭で警備員に捕まったチベット人が殴る蹴るの暴行を受けて死んだように横たわったのを見ている。しかし逮捕され監獄に入ってからも、暴行は続くのである。NHKで放送されたドキュメンタリー「ダライ・ラマ――亡命の三〇年――」のなかでも、ジャムヤン・ツエリンという名のインドに亡命してきた人物が、監獄における拷問について証言している。またこれは日本では公開されていないが、昨年一一月イギリスの「チャンネル・4」で放映されて大きな反響を呼んだドキュメンタリーは、イギリスの女性記者が現地に入り、チベット人の生の声を無許可で集めたものだった。このなかで、デモに参加して捕まった四人の尼僧が、女性として最も屈辱的な拷問を受けたという証言を涙を流しながら行っている。しかしそれでもデモは起こっている。一昨年秋以来、日本でも大きく報道された大規模なものは三回だが、小さなものはしばしば発生し、そのたびに逮捕者が出ているのである。

現在のおけるチベットの悲劇を端的に表している問題に、産児制限の問題がある。中華人民共和国では、その厖大な人口を抑制するため、いわゆる「一人子政策」が行われていることは、日本でも広く知られている。しかし一般に、ノンチャイニーズたる「少数民族」の出産は自由であると思われているのは、明らかな間違いである。中共政府自身、そのことを各省・自治区の「計画出産条例」に明記している。

チベットのこの問題に関する中共政府の見解は、次のようである。「中国は七〇年代から全国的に計画出産を提唱しはじめ、著しい成果を上げてきた。だがチベットでは、人民政府は地元の具体的な状況を考慮に入れて、チベット族の幹部と職員・労働者に限って計画出産を実施させ、広範な農民と牧畜民にその実行を要求したことはない。チベット族の幹部と職員・労働者に対する計画出産の要求は、全国の他の地区の漢族幹部・職員・労働者よりかなりゆるやかなものである(注22)」つまり、チベット人でも幹部・職員・労働者は産児制限の適用を受けることを認めている。しかしここで農民・牧畜民は自由だといっているのは本当だろうか。しかしこれはウソなのである。

今年二月二八日の『デイリーヨミウリ』に、アメリカの医師ブレイク・カーによるこの問題に関する報告が載っている。これは『ワシントン・ポスト』に寄稿されたものの転載であった。同医師は八七年秋、チベットに滞在中、ラサのデモを実見し、六人のチベット人が殺されるのを確認するとともに、負傷者の治療にも当たった。そのうえ現地で、注射で赤ん坊を殺され、自身もラサ人民病院で不妊手術を強制的に行われたという女性に会い、強い衝撃を受けた。そこで、より詳しい情報を得るため、八八年秋、インドのチベット難民を訪ねた。難民からの調査によると、都市では病院が、地方では村々を巡回する医療チームがこの中絶と不妊手術の作業にあたっている。中絶手術では九ヶ月の胎児を摘出した例があり、さらに健全に生まれてきた赤ん坊の頭に看護婦が注射して殺してしまったことさえ証言されている。

一九八〇年の「開放」政策以後、日本人もチベット現地を訪れることが可能となったため、多くの人びとが自分の目でチベットの現状を観察してきている。しかし日本においては、そのような情報が一般の人びとに知らされるのはきわめて少ない。そのまれな例の一つに、登山家根深誠氏が書いた『風の冥想ヒマラヤ――チベット高原を行く――』という本がある。同氏は八六年、青海省のゴルムドからラサにいくバスのなかで次のような体験をした(注23)。根深氏は外国人がほとんど乗らない青海省の中共製のバスに現地の人びとと一緒に乗り込んだ。乗客はチベット人と漢人だが、少数の漢人が前の方の良い席を独占してゆったりと座り、チベット人は後ろの方にすし詰めにされた。同氏もこのチベット人のなかに入っていた。三一時間走り続けたこのバスの旅で、途中の休憩はすべて漢人の都合でとり、チベット人にはトイレ・タイムすら二回しかとらせなかったという。また根深氏が他の日本人旅行者から聞いた話では、後から乗り込んできた漢人が、座っていたチベット人の頭髪を引っ張ってムリヤリ引きずり降ろした例があったという。その他この本には、チベットを含めた「少数民族」地域で、漢人がいかに傲慢に振る舞っているか、根深氏による見聞がいくつも紹介されている。

チベットにおいて、チベット人が漢人に対していかに反感を抱いているかは、独立要求デモの際に役所だけでなく漢人の商店も焼き打ちされることからも明らかだが、筆者が当事者から直接聞いた話でも、次のような事例がある。一九八四年ラサに旅行した日本人男性は、ホテルの人間から、漢人と間違われるような服装はしないこと、夜は一人歩きをしないことを注意された。北京からラサにいったことのある漢人の若者は、現地のチベット人の前では、なるべく日本人とか香港人ということで通したという。

 

九、亡命から世界へ

さて今年一〇月五日、本年度のノーベル平和賞がダライ・ラマ一四世に授与されることが決定した。本年度の候補者のなかには、レーガン前大統領や、ソ連のゴルバチョフ議長、それに南アフリカのアパルトヘイト運動の指導者ネルソン・マンデラ氏も含まれていたのだが、ダライ・ラマ一四世に決定したのである。これは欧米においてダライ・ラマ法王の存在がいかに高く評価されているかを示すとともに、チベットの人びとの民族自決の運動が、ようやく世界的支持を獲得したことを物語っている。ただしここにいたるまでには、チベットの人びとの実に長く苦しい闘いがあったことを忘れてはならない。以下、それを簡略にたどっておくことにしよう。

一九五九年三月一七日、ラサを脱出したダライ・ラマ法王は、同月末、国境を越えてインドに亡命した。はじめはムスリーにいたが、六〇年四月、ヒマチャール・プラデシュ州のダラムサラに亡命政権を樹立することとなった。法王の後を追って多数のチベット人が世界の屋根ヒマラヤを越えて亡命し、その途中で命を落とす人も多かった。その数は五九年五月までに一万五〇〇〇人、六〇年には四万人に達し、以後も増え続けて一〇万人を超えた。亡命者は現在にいたるも続き、亡命チベット人の数は亡命後に生まれた人も含めて、十数万人に達している。これらの人びとは、インドだけでなく、ネパール、ブータンなどの近隣諸国、さらには欧米など世界に居住している。

亡命したチベット人を、インドの人びとは温かく迎えたといっていいだろう。現在にいたるもインド政府は、亡命チベット人に大きな援助を与えている。ただしチベット人も懸命に自活の道をはかった。チベットの手工業製品、チベッタン・カーペットやセーターの製作にはげみ、それらは行商によって売りさばいた。それだけでなく、南インドのカルナータカ州を中心に、それまで原生林だった地域を開墾して、チベット人の定住地をつくっていった。そこにはもとラサにあった有名僧院も再建され、多くの僧侶も居住している。

亡命したチベット人がとくに意を注いだのは、チベットの文化を保持し継承するということである。そのための方策は、大きくいって二つあった。一つはチベットの文化を次代に伝える子供たちの教育であり、もう一つはチベット文化の中核であるチベット仏教を亡命の地でも再建することであった。教育については、いくつかのタイプの学校があるが、最も有名なのは「子供村」と名付けられた全寮制の学校である。チベットでの動乱と困難な亡命を経てきたために、多くの孤児が存在した。しかも寒冷の地で生活していたチベット人にとって、インドの気候は過酷であり病死する人が相次いだ。まずそれらの孤児を収容するために、全寮制の学校は生まれた。ダラムサラのそれは、二~三〇人の子供のいる家が何棟も並び、一つの家には一人の寮母の当たる女性がついている。母国語であるチベット語はもちろん、インドの地で生活するためにはヒンズー語も、そして英語も学ばなければならない。これらチベット人子弟の教育には、世界各国からの種々のスポンサーシップが設定されている。日本ではあまり知られていないが、それでも何人もの日本人スポンサーが存在するのは日本人としてうれしいことである。

チベット仏教は、仏教発生の地インドに帰ってきた。ダラムサラを中心とする北インド、そして先述した南インドにも、チベット仏教の寺院・僧院がつくられた。ネパールなど元来チベット仏教寺院が存在していた地にも、チベット本土からの僧侶が居住するようになった。それだけではない。大変興味深いことに、チベット仏教は亡国という運命に出会うことによって、かえって世界に拡大する道が開かれたのである。すでに欧米を中心として、世界中に数百をかぞえるチベット仏教センターが存在している。いままでの一神教的世界観や、近代合理主義的な価値観に行き詰まりを感じるインテリ層に、とくに関心をもたれているようである。それに対してわが国においては、すでに仏教、しかも同じ大乗仏教があったために、かえってチベット仏教の価値が正当に認識されておらず、日本チベット仏教会という宗教法人は認可されているが、チベット仏教の寺院は現在のところ存在していない。しかし日本でも若者を中心に、冥想や曼陀羅といった事柄に対する関心は急速に高まっており、しばしば催されるチベット仏教の講習会には多くの参加者がある。単なるオカルト趣味的なアプローチでなく、チベット仏教の本質をまじめに極めようとする、健全な信仰が成長してもらいたいものである。

欧米では一方でこのようなチベット仏教・チベット文化への関心があり、他方で元来人権問題に対する意識は高かったから、チベット問題への認識は深く、しかもそれは「開放」政策以後チベット現地を実際に見ることができるようになって一層増進した。このような背景のもとに、アメリカ議会ではチベットにおける中共の人権侵害を非難し、チベット人を支援する法案が二年も前に可決されたし、EC議会などでもラサの独立要求デモで死者が出た際には、人権の尊重を訴える決議を採択しているのである。これは同じ自由主義諸国といいながら、日本の状況とは決定的に異なっている。

 

一〇、チベット問題と日本の報道

では日本においては欧米に比較して、どうしてチベット問題に対する認識が驚くほど低いのであろうか。それにはいろいろな要因が関与しているが、基本的にはジャーナリズムの責任が最も大きいといってよいであろう。ジャーナリズムのなかでも、とくに新聞と放送であり、ジャーナリズム以外では、共産主義国家の悪に盲目であった左傾したアカデミズムの罪が重い。日本の政治家も官僚も、このジャーナリズムの影響下において、チベット問題にコミットすることを忌避しているのである。そもそも日本の巨大マスコミ(新聞および放送)が、中華人民共和国の国家権力によっていかにコントロールされているかは、かつて北京特派員をつとめた伊藤喜久蔵氏が、つとに指摘している(注24)。それによれば、中共権力にだらしなく屈従しているのは日本だけで、世界の四大通信社は北京とともに台北にも特派員を同時に置いているという。とすれば、中華人民共和国の抱えている最大の恥部たるチベット問題の報道には、強い規制が加えられるのだろう。筆者が「チベット問題入門」と題して、本誌に三回にわたって載せていただいたチベット問題を理解するために必要な基本的知識は、ごくまれな例外を除いて、日本のマスコミで報道されたことはほとんどない。では次に、日本のマスコミがチベット問題の報道で、犯罪的な報道を行った具体例を、三例紹介しておくことにする。

一九八七年(昭和六二年)秋は、チベットのラサで大規模な独立要求デモが起きたときだが、一一月一八日の東京新聞夕刊に掲載されたコラム「放射線」に、作家の畑正憲氏が「力の支配の限界」と題する文章を書いている。これは三年前にチベットを旅行した際の見聞を記したものであり、率直に漢民族を批判した内容であった。たとえば次のような生き生きとした描写がある。「私たちには、中国人の連絡官がついたが、銃を持たずにチベット人の村に入ることはできなかった。必要があって仲間を残す時には銃を与えたのにびっくりさせられた。そしてだ、チベット人がささいなことを要求してきた時、銃を構えてわめきたてた。まるで虫けらのように追い払った」。それに続けて畑氏は次のようにこの文章を結んでいる。「異民族を力で支配するのは、もうやめにしなければならぬ。チベットは、チベット人の手で支えられ、その手にすべてがゆだねられるべきである」。中共=漢民族によるチベット侵略に対する、実に明快な否定である。ところでこのコラムは、驚くべきことに版の途中から、同じ畑氏の「シルクロード」と題する新彊ウィグル自治区についての別のコラムにすり替えられたのである。明らかに内容が中共政権を刺激することを恐れたうえでの処置であった。

八八年六月、その年の夏から秋にかけて日本の各地で開催された「中国チベット秘宝展」(主催・朝日新聞社)の準備のため、朝日新聞の岩垂弘編集委員は、歴史学者色川大吉氏など四人でラサを訪れた。六月二八日、西蔵自治区政府および同共産党委員会の要人たちと会見した彼らは、実に意外な事実を明らかにされる。それを色川氏は、同年八月五日号の『週間ポスト』誌上で、次のように記している。「あわせて寺院破壊の数字を聞く。この返答は以外であった。まず私を驚かせたのは、〝解放〟(一九五一年)前、二千七百寺院あったものが、文革開始後(一九六六年)には約千寺院に減少していたというのである。つまりチベットの寺は、文革以前に大半が破壊されてしまったということの承認である」。寺院の破壊は文革期に紅衛兵によって行われたという定説が強固に成立している現在、この話はまさに特ダネであった。しかもこのときより二年前、岩垂氏はこれと逆の情報を自治区政府の当局者から聞かされ、それを記事にしている。にもかかわらず、八八年七月一四日と二二日に朝日新聞に書いている岩垂氏の署名記事のなかに、右の重大な新事実は一言も触れられていない。以前に報道した事実と相反する事実が判明した以上、それを読者に知らせるのは、記者としての最低の責務である。しかし岩垂氏は故意に事実を隠したのである(注25)

八八年九月八日、テレビ朝日の人気番組「ニュース・ステーション」で、インドのチベット文化地域ラダックで行われたダライ・ラマ法王に対するインタビューが放映された。その内容は、日本の報道機関のチベット報道としては珍しく、チベットの立場に理解を示したものであった。ところが翌九日、同番組の冒頭で久米宏キャスターは、前日の放送を見た人びとのためにと称して、次のように三点にわたって「訂正」しお詫びをした。第一は、チベットは一三世紀以来「中国」の領土であったこと。第二に、一九五一年の中共によるチベット併合は、平和的に行われたものであること。第三に、五九年の動乱は、封建領主の反乱であったこと。以上の三点である。これらはすべて、チベット問題に関して中共政府が主張していることであり、前日の放送について外部からクレームをつけられ、もろくもそれに屈したことは明らかである。では、なぜこのようなことが起こったのであろうか。それは下請・孫請プロダクションによって製作された内容を、よく「検閲」しなかったからに違いない。テレビ朝日自身が従来の報道姿勢を改めて、まっとうなチベット報道をはじめようと決意していたのなら、外圧に簡単に屈するはずがないからである(注26)

 

一一、おわりに

ダライ・ラマ法王のノーベル平和賞の受賞をきっかけに、日本でもチベット問題に対するタブーが、少しではあるが解けてきたような気配はある。ただしマスコミの報道ぶりを見ても、チベット問題を世界史の流れにおいて理解しようとする態度は見られない。三回にわたって掲載していたいだいた本稿を終えるに当たって、この点に言及しておくことにしよう。

世界史を振り返ってみるとき、民族独立の大きな波は、二回あったことがわかる。一つは第一次世界大戦後のヨーロッパであり、もう一つは第二次世界大戦後のアジア・アフリカである。とくに後者は実に数多くの独立国をつくり出した。ところがアメリカ型の移民によって成立した多民族国家ではなく、土着の諸民族が併合されてでき上がった多民族国家であるにもかかわらず、民族独立の波を回避した多民族国家が二つあった。すなわちソヴィエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国である。ともに前近代的帝国主義国家たるロシア帝国と清帝国の後継者であった。このような国家は、オスマン・トルコ帝国のように、本来歴史の流れのなかで解体すべきはずであった。しかしそうならなかったのは、ソ連および中共という共産主義に変身してしまったからである。共産主義国家では、そのイデオロギーのうえで、階級が消滅して支配する者と支配される者の区別がなくなるとされており、同様に民族間の支配・被支配の関係も解消されるとされたために、独立する必要はないと思われていたのである。

しかし現実は、理論どおりにはならなかった。共産主義国家こそ、ノーメンクラツーラという特権階級が存在する、強固な階級国家になった。階級の差別が解消されないのに、民族の差別が解消されるわけがない。いま東ヨーロッパを揺るがしている民主化運動と民族運動は、積もり積もったツケが支払われようとしているのである。中華人民共和国においてもそれはまったく同じであり、民主化運動と独立運動が未来を拓くのである。

 


    ●注

    (1)『北京週報』(日本語版)一九八九年二月二一日号。
    (2)高野好久『今日のチベット』新日本新書、一九六六年。秋岡家栄『チベットの旅』佼成出版社、一九七七年。
    (3)『北京週報』(日本語版)一九八九年二月二八日号。
    (4)「チベット問題入門(上)」『海外事情』一九八九年五月号、七五~七六ページ。
    (5)『北京週報』(日本語版)一九八七年七月一四日号。
    (6)岩垂弘『青海・チベットの旅』連合出版、一九八七年。
    (7)『北京週報』(日本語版)一九八八年五月三一日号。
    (8)注(5)参照。
    (9)『中華人民共和国資料手冊』社会科学文献出版社、一九八六年。
    (10)法学者国際委員会『チベットと中華人民共和国』(英語)一九六〇年、ジュネーブ。
    (11)小林秀英「中国の恥部を突いたノーベル賞」『文藝春秋』一九八九年一二月号。
    (12)John.F.Avedon, TIBET TODAY,1987年.
    (13)注(12)参照。
    (14)『北京週報』(日本語版)一九八七年一〇月一三日号、八九年三月二八日号など。
    (15)『北京週報』(日本語版)一九八七年一〇月二七日号。
    (16)Amnesty International,CHINA,VIOLATIONS OB HUMAN RIGHTS,1984.
    (17)注(15)参照。
    (18)フォックス・バターフィールド(佐藤亮一訳)『中国人』(上・下)時事通信社、一九八三年。
    (19)『北京週報』(日本語版)一九八九年三月一四日号。
    (20)『デイリー・ヨミウリ』一九八九年四月二五日号。
    (21)注(19)参照。
    (22)注(3)参照。
    (23)根深誠『風の冥想ヒマラヤ』立風書房、一九八九年、二一〇~二一四ページ。
    (24)伊藤喜久蔵「中国報道――いかに真実を伝えるか――」『東亜』一九八八年七月号。
    (25)拙稿「また『中国』で歪められた『朝日』のチベット報道」『諸君!』一九九〇年一月号。
    (26)拙稿「チベット報道、中共の脅迫に屈したニュース・ステーション久米宏」『月曜評論』第九二三号(八八年一〇月三日)。

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