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チベット問題入門(中)

ブログ管理者から

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酒井信彦先生に過去に発表された論考を掲載するにあたり、訂正並びに補足の必要などを伺った。それに対し、下記のお答えを頂いたので、一連の論考をそのままに順次掲載していきます。

「私の論考については、付け足しや補足は必要ありません。中味については、今でも十分通用すると思いますし、客観的状況としては、ずっと悪くなっているのであり、遥かに理解しやすくなっているはずですから」(酒井信彦)

 

『チベット問題入門(中)』 酒井信彦(さかいのぶひこ・東京大学助教授)
拓殖大学海外事情研究所 海外事情九月号 抜刷 

五、中華思想の構造

前回の末尾で、「中国人」すなわち漢民族のチベット人に対する意識の問題に言及した。つまり中華思想の問題である。この中華思想こそ、中共政権がチベットを侵略した根本的原因であり、チベット問題を理解するうえでも、最も大切なポイントである。にもかかわらず、一般にはほとんど正確に認識されていないと言ってよい。そこで以下、中華思想の近代以降の展開について、孫文の「三民主義」を中心に少し詳しく考えてみることにしよう。

「中国革命」という言葉は、普通は共産党による革命を意味するが、それ以前にも革命と言われる社会体制の大規模な改変があったことを忘れてはならない。それが一九一一年の辛亥革命である。この革命は近代革命であるとともに、一種の民族主義革命であった。というのは孫文が打倒の対象とした清帝国は、異民族満州人を頂点とする王朝であり、清帝国を倒すことは満州人支配からの漢民族の解放を意味するものであったからである。その点から言って辛亥革命は、太平天国の乱を継承していると言ってよい。一九世紀の中頃、南方地域において一〇年以上にわたって展開された洪秀全を指導者とする太平天国の乱は、一名長髪賊の乱と呼ばれた。これは満州人から強制された習俗である弁髪を拒否することが、すなわち満州人の支配を拒否することを表していたのである。孫文たちの革命の民族主義的傾向は、その組織の名称「興中会」とか「華興会」という名前にもよく示されていると言えるだろう。

かつて日本が満州の地に作り上げた満州国で、「五族共和」というスローガンが強調された。その意味するところは、満州国を構成する五つの民族が共同して和合した国家を形成しようとすることにあった。ここで言う五族とは、日本・朝鮮・満州・支那・蒙古の五つの民族である。ところで満州国の五族共和には、実は手本があった。それは辛亥革命後の中華民国で唱えられた五族共和である。中華民国の五族とは、漢(支那)・満・蒙・回・蔵の五族をさす。回はイスラム系の諸民族、蔵は西蔵=チベットである。そして中華民国の国旗は、この五民族を色によって表示した五色旗であった。

つまり民国革命において、革命以前と以後とでは、民族政策の表れ方に大きな変化がある。革命が実現するまでは「駆除韃虜」と言われたように、支配者たる満州人を支那本土から追い出し、漢民族としての独立を回復することに主眼があった。ちょうど元の支配者モンゴル人を追い出して、明が成立したように。しかし革命が実現してみると、孫文らが漢民族にとって満州など他民族の土地を手放す気にはなれなかった。そこで五族共和となったのである。清帝国時代、支那本部一八省とまったく異なる性格の土地であった満州・モンゴル・東トルキスタンおよびチベットの広大な領域の主人公である四民族を、漢民族と同格に扱うことにより、自らが否定した清帝国の版図をそのまま継承しようとしたのである。

では五族共和が唱えられて、孫文など革命を主導した漢民族は、他の四民族を本気で自分たち同等に扱おうと考えたのだろうか。それはまったくそうではないのである。五族共和のスローガンはあくまでも建前であり、漢民族の本音は完全に逆であった。そのことは他でもない、孫文の代表的著作『三民主義』(注1)のなかでも中核をなす、「民族主義」を読んでみることによって明らかとなる。「民族主義第一講」において、孫文は次のように言っている。(注2)

    「では中国の民族はというと、中国民族の総数は四億、そのなかには、蒙古人が数百万、満州人が百数万、チベット人が数百万、回教徒のトルコ人が百数十万まじっているだけで、外来民族の総数は一千万にすぎず、だから、四億の中国人の大多数は、すべて漢人だといえます。おなじ血統、おなじ言語文字、おなじ宗教、おなじ風俗習慣をもつ完全な一つの民族なのであります」

つまり孫文は、五族のうち漢民族以外の四民族の人口は合わせて一〇〇〇万、四億のうちの二・五%を占めていると言っているにもかかわらず、これらは無視してしまっていいと明言しているのである。チベット人は、言語でも宗教でも風俗習慣でも漢民族とはまったく異なっているのだから、これらの人々の存在を一〇〇パーセント無視するのでなければ、「完全な一つの民族」という表現が出てくるはずがない。すなわち五族共和のスローガンは、あくまでも漢民族が他の四民族を併合支配するための方便にすぎないのである。

辛亥革命後、チベットは独立を宣言した。同じようにモンゴルのうち外蒙古も独立を宣言した。そしてこの両者は一九一三年、相互援助条約を締結する。しかし中華民国はもちろんこの独立を認めるわけがない。清帝国の藩部を統治した機構を理藩院と言ったが、その後進にあたる機関を設けて蒙蔵委員会と称した。中華民国はチベットの独立を否定し、しばしば東チベットへの侵入を企てた。とくに一九一八年を中心とする紛争は大きなものだった。この紛争に関しては、両者の間にあって調停をつとめたイギリスの外交官タイクマンの記録が、『東チベット紀行』(注3)として出版されている。この書物によって、その当時チベットの政治的独立性がいかに明確に存在していたかが知られるであろう。なお蒙蔵委員会は現在においても台湾の中華民国政府の機構のなかに存続している。また現在台湾で発行されている中華民国地図は、中華人民共和国の領域を含んでいるのはもちろんのこと、モンゴル人民共和国も含まれている。中華民国は諸民族の独立を認めなかったが、支那本部の中ですら軍閥の割拠や共産勢力が存在している状態では旧藩部の諸民族を統治することは不可能だった。したがって漢民族としてのこの歴史的課題は、中共政権に持ち越されたのである。では中共勢力の他民族に対する考え方はどうであったろうか。中共政権の民族政策は、ソ連のそれを手本にしていることは容易に考えられる。元来他民族を侵略支配して成立したロシア帝国が共産化したのがソ連、すなわちソヴィエト社会主義共和国連邦であった。したがって、ソ連ではロシア人が引き続き異民族を支配することの正当性を保証する民族理論が、レーニンやスターリンの努力によって整備された。その要点は、共産主義社会では階級が消滅することによって支配する者とされる者との差別が解消するように、共産主義下では支配民族と被支配民族との差別はなくなるのだから、いままで支配されていた民族もあえて独立する必要はなくなるとするのである。ただしソ連の憲法においては、ソ連を構成する一五の共和国は独立する権利を保障されている。現憲法第七二条(注4)には、「各連邦構成共和国には、ソ連邦からの自由な脱退の権利が留保される」とある。

それに対して「中華人民共和国憲法」では、その第四条(注5)に、

    「中華人民共和国の諸民族は、一律に平等である。国家は、すべての少数民族の合法的な権利および利益を保障し、民族間の平等、団結および相互援助の関係を維持・発展させる。いずれの民族に対する差別と抑圧も禁止し、民族の団結を破壊し、また民族の分裂を引き起こす行為は、これを禁止する。(中略) 少数民族の集居している地域では、区域自治を実施し、自治機関が設置されて、自治権を行使する。いずれの民族自治地域も、すべて中華人民共和国の切り離すことのできない一部である」

と規定している。すなわち、同じ共産主義の多民族国家でありながら、中華人民共和国はソ連と異なって諸民族の独立を完全に否定しているし、それ以前に連邦国家ですらない。

しかし中国共産党の民族政策の歴史を振り返って見るとき、ソ連と同じような方針が出されている時代もあった。たとえば一九二二年の中国共産党第二回大会では、「蒙古、西蔵、回彊の三部に自治を実行し、民主自治邦とする」「自由連邦制によって、支那本部、蒙古、西蔵、回彊を統一して、中華連邦共和国を建設する」と宣言しているのだから、連邦国家の構想はあったわけである(注6)。また一九三一年の「中華ソビエト共和国憲法」では、

    「中国ソビエト政権は、中国境内の少数民族の自決権を、中国から完全に分離する彼らの権利を、そして、各少数民族が独立国を形成する権利を承認する。中国境内に居住するすべての蒙・蔵・回・苗・瑤・朝鮮族その他は全面的に自決権を有する。すなわち、彼らは中国ソ連邦共和国に加入または離脱することを選択できる。中国ソビエト政権は、少数民族を帝国主義者、国民党軍国主義者、地方支配者、王公、ラマなどから解放し、完全な自由と自治を達成するために最大限の援助をする。ソビエト政権はこれらの人々の文化と言語の発達を促進せねばならない」

と述べられていた(注7)。しかし中共の場合は、以後時がたつにつれて分離独立権の保証はあいまいとなり、中華人民共和国が成立すると、東トルキスタン、チベットを侵略併合し、五四年に制定された憲法では先述したように、民族の独立は完全に否定されてしまう。

では中共の場合、ソ連と異なって民族の独立を完全に否定したのは、なぜだろうか。その理由は、辛亥革命を主導した孫文の例で説明した中華思想の伝統による、としか解釈はつかない。毛沢東自身、中華思想の完全なる継承者であった。エドガー・スノーの『中国の赤い星』は、著名な毛沢東伝であるが、このなかで毛沢東自身の話として、はじめて政治意識に目覚めた契機になった、「ああ、中国はまさに亡びんとしている」という題名のパンフレットのことが取り上げられ、「それは日本の朝鮮と台湾の占領、インドシナ、ビルマその他の宗主権の喪失をつげました。これを読んだあとで私は祖国の将来を思って、暗澹となり、国を救うのを助けるのは全人民の義務であることを理解しはじめました」と述べている(注8)

ここに、近代の漢民族に共通して見られるナショナリズムの構造が明確に現れている。それは、日本を含む西欧列強による侵略に対抗しなければならないという考え方と、周辺諸民族に対する自己の侵略性とが矛盾なく共存することである。というよりも、自己が被害者となる侵略には敏感であるが、自己が加害者となる侵略にはまったく鈍感になるのである。もちろんこのようなナショナリズムの構造は日本の近代史にも見られる心的傾向であり、普遍性を有していると言えるだろう。ただし漢民族の場合、中華思想の伝統に基づいて自己の正当性と他民族への蔑視感は極端に肥大しており、しかもそれが現在にいたるまで強固に存続している点に、大きな特徴があるのである。

たとえば一九八五年、中共に留学して全国の一級行政区のすべてを旅行した日本人のある学者は、漢民族が他の民族に対していかに傲慢に振る舞っているかを観察している(注9)。しかも彼は、一人の軍隊あがりの若者から、日本もかつて中華帝国との間に冊封関係を有した時期があるのだから、中共は日本に対して領土権を主張することができると言明されたという。日本に対してすらこのような認識があるとすれば、他の東アジア諸民族、ましてや中共統治下の諸民族に対する漢民族の意識が、いかに歪みきったものであるかは、容易に想像できるであろう。

実は漢民族の他民族に対する意識のあり方は、今年春の一連の出来事に明白に現れていた。すなわち四月一五日、胡耀邦元総書記の死去からはじまった北京を中心とする学生たちの民主化要求デモは次第に拡大し、一時終息するかに見えたが、ゴルバチョフ訪中を利用して一気に爆発して、五月二日、北京における戒厳令の布告にいたった。そして六月四日、天安門広場の学生・市民に向かって銃口が火を吹き、多くの人びとが殺されたことは言うまでもない。しかしこれより少し前の三月初旬には、チベットのラサにおいて市民が独立要求デモに立ちあがり、警備の官憲がこれに向かって発砲して、多くの死者が出ていたのであり、三月八日にはラサにすでに戒厳令が布告されていた。しかもこのようなチベットの人びとによる命を賭けた独立要求デモは、八七年の秋以来大規模なものは三回、小規模なものは何度も起こっているのである。

にもかかわらず民主化を求めて立ち上がった学生達のデモにおけるスローガンに、チベット人の行動を支援する表明が全然見られなかった。民主化を求めるにせよ、独立を求めるにせよ、現在の中共権力の打倒を目指さなくてはならないのは同じである。ビルマの場合、学生達は少数民族ゲリラの基地で訓練を受けているから、両者が連帯していることは明らかである。中共の民主化を求める学生たちの口から、命がけで闘っているチベット人に言及がないのは、彼ら自身、中華思想の骨がらみでとらわれている証拠である。ここに民主化運動の現時点における決定的な限界が表れている。

つまり漢民族の本音において、いわゆる「少数民族」はその存在価値をまったく認められていない。それを孫文が『三民主義』なかで思わず告白してしまったことは、さきに見たとおりである。しかもそのような考え方は、現在においても少しも変化していないのである。というよりも、言葉の点から言ってより発展しているとさえ言えるのではないだろうか。「少数民族」という言葉が漢民族以外の諸民族をことさらに軽視ないしは無視せしめるための、悪質な政治用語であることは、前回も指摘したとおりである。孫文当時は建前だけでも五族共和と言わなければならなかったが、中共政権下でこれら諸民族の土地を侵略・併合してしまうと、そのような配慮が必要でなくなったのである。それにしても、中共の非漢民族すなわちノンチャイニーズは、現在八五〇〇万人もいるのであるから、「少数民族」という用語法は明らかに不当である。ただし漢民族がこの用語を作り出した根底に、彼ら独自の人口観があることを理解しておかなければならない。

孫文は『三民主義』の中で、西洋列強の侵略によって、中国においてすら漢民族が少数民族になってしまう事態を、口をきわめて警告している。その恐れ方はわれわれの目から見て異様なほどである。たとえば「民族主義第一講」の末尾で、孫文は次のように語っている(注10)

    「中国は全世界でもっとも気候の温和な、物産のもっとも豊富な土地だが、なぜ、各国人が、一時、併合できないでいるのか。そのわけは、かれらの人口が中国の人口に比べ、まだあまりにも少ないからであります。しかし、百年後になって、もし、われわれの人口がふえず、かれらの人口はひじょうにふえたとなると、かれらは多数の力で少数を征服し、かならず中国を併合してしまうだろう。そのとき、中国はたんに主権をうしない国をほろぼすだけでなく、民族もかれらにのみこまれ、人種までほろびてしまうだろう。かつて、蒙古や満州が中国を征服したのは、少数によって多数を征服し、多数の中国人を利用して、かれらの奴隷にしようとしたからだ。ところが、もし列強が将来、中国を征服したなら、それは多数によって少数を征服するのであり、われわれを奴隷にする必要もない。われわれ中国は、そのときには、奴隷にさえなれなくなるのであります」

この『民族主義第一講』は、一九二四年(大正一三)一月二七日の講演である。すでに四億と言われる人口を擁しながら、孫文はなぜこれほど他民族の流入を恐怖したのだろうか。その理由はほかでもない孫文自身が、「民族主義第五講」で次のように説明している(注11)

    「わが国の歴史を調べてみると、漢民族の膨張とともに、もともと中国の原住民であった苗・瑤・僚・僮などの諸族は滅亡していった。だとすると、わが民族が世界各国の人口の増加に圧迫されて遠からず滅亡することは一目瞭然だ」

つまり巨大な人口の海のなかに異民族を吸収して滅亡させる方式は、漢民族が伝統的に行ってきたのであり、自分自身がやってきたからこそ、同じ方法で侵略されることを極度に恐れたのである。ただし最も重要なことはその先にある。それは孫文は西欧列強からの侵略を恐れつつも、同時に伝統的な方法で周辺諸民族を侵略することにはきわめて熱心であったことである。先に見たように孫文は、漢民族以外の民族にその独自の価値を認めていない。ということは、それらの民族には存在価値はなく、彼らは漢民族に吸収され消滅してしまうべき存在なのである。

すなわちこのような孫文の民族観・人口観は、漢民族に伝統的な考え方であり、これこそが中華思想の本質である。この中華思想は、毛沢東に受けつがれ、そして今日にいたるも脈々と生き続けている。毛沢東が産児制限を嫌った理由もここに存在する。現在は毛沢東時代の行き過ぎを是正しているが、根本的な考え方が変わったわけではない。非漢民族地域への大規模な漢民族の移住が行われていること、非漢民族に対しても産児制限政策が積極的に実施されていることが、そのなによりの証拠である。

チベットに対する漢民族の移住の数量については、全稿で述べたのでここでは触れない。チベット亡命政府は、チベット全土において、すでにチベット人人口をはるかに上まわる漢民族が入り込んでいると指摘している。中共政府の公式発表でおいてすら、新彊ウィグル自治区では人口の半分以上が、内蒙古自治区では実に九割近くが、漢民族人口になっている事実にわれわれ日本人はあまりにも無関心である。なおチベットにおける人口制限政策については、次回に触れる予定である。

 

六、中共によるチベット侵略

一九四九年一〇月、中華人民共和国が成立すると、同一二月、中共軍は東トルキスタンに進駐し、五五年一〇月一日、新彊ウィグル自治区が発足する。なお内蒙古は地理的関係から比較的早く中共権力の手に落ち、中華人民共和国の成立以前、四七年五月一日に内蒙古自治区は成立していた(注12)。外蒙古はソ連の衛星国としてモンゴル人民共和国になっていたから、中共政府としてもこれには手をつけられなかった。同じ清帝国の藩部であっても、チベットの場合はその特殊性を考慮して、中共による侵略は比較的慎重に進められたと言える。以下に述べる中共によるチベット侵略の過程は、今日のチベット問題を理解するための直接の前提であってきわめて重要であるが、比較的入手しやすい日本語文献として『チベット我が祖国――ダライラマ・自叙伝――』や『チベット入門』が存在するので、詳しくはそれに譲る(注13)。ここではいくつかの要点について略述するとともに、日本ではほとんど見落とされている二つの大きなポイントに関して述べておきたい。

人民共和国成立直後、北京放送はチベット領有の正当性を主張し、中共軍の進駐を予告した。ついでチベットに対して外交的圧力を強めてきたために、チベット政府はイギリス・アメリカ・インド・ネパールの四ヵ国に代表団を派遣し、チベットの力になってもらおう計画したが、四ヵ国はこれを拒んだ。チベット政府はやむなく、五〇年、インドのデリーで中共側との交渉に入った。この交渉で中共側は、(1)チベットの国防は中共が担当すること、(2)チベットは中共の一部であることを認めること、の二条件を要求したが、チベット政府はこれを拒否した。

しかしいまだ交渉中にもかかわらず、一〇月七日、中共軍は東チベットへの侵攻を開始した。チベット軍は圧倒的な軍事力の差にもかかわらず懸命に戦ったが、一〇月一九日、東チベットの要衝チャムドが陥落して大打撃を受け、中共軍はここで進撃を止めた。このチベットに対する中共軍の直接行動に際しても、イギリス・インドは動かず、チベット政府はついに一一月、国連に提訴した。第五回国連総会では、エルサルバドル代表がチベット問題の討議を要請したが、イギリス・インドの反対で取り上げられなかった。そこでチベット政府は、北京における直接交渉に臨まざるをえなくなった。そして五一年五月二三日、「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定(注14)」(通称、十七条協定)が結ばれて、チベットは中華人民共和国に併合されて独立を喪失した。この時中共側は、調印に必要なダライ・ラマの印璽を偽造してまで、チベット側に調印を強制したという。

次に十七条協定のうち、いくつかを列挙してみよう。

    第一条 チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る。
    第二条 チベット地方政府は、人民解放軍がチベットに進駐して、国防を強化することに積極的に協力援助する。
    第四条 チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権にも中央は変更を加えない。各級官吏は従来どおりの職に就く。
    第七条 中国人民政治協商会議共同綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない。
    第十三条 チベットに進駐する人民解放軍は、前記各項の政策を遵守する。同時に取引は公正にし、人民の針一本、糸一本といえども取らない。

ここに見られるように、チベット政府を実質的に存続させるなど、中共政府は急激な改革を避ける方針をとった。しかしラサに進駐した大量の軍隊のためにたちまち食糧危機が起こり、物価が騰貫した。軍事道路を突貫工事で建設するための強制労働に人びとはかり出された。とくに東チベットでは中央チベットと状況が異なり、五〇年代前半から侵略支配によるおびただしい被害が報告されている。当時は、現在の四川省西部から「西蔵自治区」の東部にかけて「西康省」という省が存在した(注15)。この省は中華民国時代、「青海省」と同じくチベット全土を分割支配するために設けられた省であった。中華民国時代には実効支配できなかったこの地域を、中共側はチベット本土と切りはなし十七条は適用されないとして、急激な改革をどしどし押し進めたのである。このあたりが漢民族の巧妙なところである。地主制を廃止するとして土地改革が行われたが、没収された土地には大量の漢民族が入植してきた。チベット仏教に対するすさまじい弾圧が行われ、僧侶には積極的に還俗・結婚が奨励されて、従わない者は拷問を受けて殺された。多くの寺院が破壊されて、貴重な文化財が失われた。「人民解放軍」という名前の軍隊は、略奪、虐殺、そして婦女暴行が最も得意だった。

東チベットでこのような悲惨な事態が進行すれば、それに対するチベット人の反抗も強まってくる。とくに東チベットの住人カンパは、チベットのなかでも勇猛さをもって知られている人びとであり、中華民国時代、その侵略を何度も撃退した。一九五五年七月、最初の大規模な反中蜂起がリタン・パタンヤ中心に勃発した。その後ゲリラ戦は東チベットに拡大して、数万人の犠牲者が出るまでになった。五八年六月にはゲリラの連合組織としてチュシ・ガントックが結成された。東チベットの紛争にともなって多くの難民が出現し、それらの人びとは自然に首都ラサをめざして逃れていった。なおカンパの人びとの、家族を引き連れての悲惨なゲリラの様子は、『中国とたたかったチベット人』に詳しく描かれている(注16)

東チベットで起こった中共の支配に対する抵抗運動はしだいに全国に波及していったが、そのなかでも最も重大な画期が、一九五九年三月である。当時のラサはいまだ戦乱に巻き込まれていなかったが、モンラム(正月大法会)への巡礼と難民とで、その人口は膨張していた。その時ダライ・ラマに対して、中共軍司令官から陣地内における観劇への招待が行われ、しかもその際、護衛をつけないようにとの条件が加えられた。これはその状況から考えて、ダライ・ラマの身柄を拉致される危険をチベット人が感じたとしても当然であった。三月一〇日の観劇当日、それを阻止しようとして三万人の大群衆が、法王の住居ノルブリンカ宮殿を取り囲んだ。いままで押さえつけられていた民衆の怒りが、巨大な反中デモとして爆発することは容易に予想された。そこでダライ・ラマ法王は宮殿を脱出することを決意し、一八日に一兵士に変装してノルブリンカを後にし、インドに亡命した。一方中共軍は三月二〇日、ノルブリンカの群衆に向かって全面的な砲撃を開始し、このために数千人のチベット人が虐殺された。チベットの市民と大寺院の僧侶は、武器を手にして中共の支配に対して果敢に立ち上がったが、ラサの蜂起は数日のうちに鎮圧されてしまった。この後中央チベットにおいても東チベットと同じく大規模な虐殺と寺院の破壊が広汎に展開されるようになった。

中共による侵略併合によって、チベットに多大な人的被害が生じたことは、まぎれもない事実である。ではそれはどれほどの人数なのだろうか。一九八四年、チベット亡命政府の公表した数字によると、一九五〇年の侵略開始以後それまでに、中共による支配の犠牲となったチベット人の人数は、一二〇万を超えている(注17)。その死因から大別してみると、三分の一は中共軍との戦闘による死者、三分の一は誤った農業政策によって人為的にひきおこされた飢饉による餓死者、その他の三分の一は監獄や強制収容所での死者、刑死者、拷問による死者である。一二〇万という数字は、チベット人の人口六〇〇万から考えれば、数人に一人という大変な高率である。日本の歴史上最大の悲劇と言われる先の大戦の死者は三〇〇万人と言われているが、当時は一億人に近い人口があったのであるから、比率から言ったらチベットの数分の一である。

ただし中共政府は、この数字をまったくデタラメなものだと主張している(注18)。しかし筆者は、チベット亡命政府の公表した数字は決していい加減なものではないと考える。そもそも世界史的に見ても、共産主義の苛烈な支配による犠牲者の数は、実にすさまじいものである。今日かならずしも明らかになっていないが、ソ連のスターリン時代の犠牲者は三〇〇〇万と言われるし、中共の文革のそれは二〇〇〇万と言われる。カンボジアの大虐殺にいたっては、わずか三年足らずの間に人口の半分近い三〇〇万人が命を失ったと、カンボジア現政権は公表している(注19)。このような例から考えてチベットの犠牲者の数はきわめて無理のない数字であることが明らかであろう。チベット亡命政府自身、この数字は遺族などからの調査を集計したものだと説明している。少なくとも南京事件の中共側の主張、三〇万、四〇万といったデタラメな犠牲者の数字とは明白に異なるものであることはたしかである。

さて一昨年以来のチベットの独立運動の高揚によって、チベット問題の存在がわが国でも認識されるようになった。しかしそれにもかかわらず、根本的に重要な事実が報道されてないのもまた事実である。たとえば右に述べた一〇〇万人を超える犠牲者の数など、アメリカ議会のチベット法案には明記されていながら、日本のマスコミではほとんど報道されたことがないから、一般的にはまったくと言ってよいほど理解されていない。

もうひとつ非常に重要であるが理解されていない事柄として、チベット人が人的・文化的に被害を蒙った時期の問題がある。すなわち、人びとが大量に殺され、多くの寺院が破壊されたのはいつかという問題である。一般にチベットの悲劇は中共の「プロレタリアート文化大革命」の一環としてのみ捉えられている。一昨年以来チベットで大規模な独立要求デモが起き、チベット人が殺されるたびに、日本のマスコミはその背景説明を行って寺院の破壊に言及するが、その時期については例外なく文革期だと説明している。しかしこれは完全な誤りである。だいいち、すでに文革がはじまる一九六六年の以前に、チベットからの亡命者はチベットにおける大量虐殺や寺院の破壊について世界に向けて訴えていた。この事は歴史を振り返ってみれば簡単にわかることである。

ではなぜ日本の報道は、チベットの悲劇を文革とだけ結びつけるのだろうか。その理由は端的に言って、中共政府がそう公表しているからである。つまり中共政府の意向に沿った報道を行っているからである。中共側の公式見解をよく示すものとして、今年一月二八日死去したパンチェン・ラマの最後の演説(一月一七日)がある(注20)

    「文化大革命はチベット人にとって災難だっただけでなく、漢族を含む全国の五十六の民族の共通の災難であった。文革による破壊はもっぱらチベット族あるいはチベットに向けられたものとは言えず、ましてや漢族がチベット族の文化を消滅させたとは言えない。文化大革命の破壊とりわけ寺院が破壊されたことを口実に、民族感情を煽動したり、民族問題を挑発することは、下心があってやるものとしか言えない」

この演説の目的はきわめて明快である。パンチェン・ラマが本気でこんなことを言っているわけではない。死の直前までこのような演説をすることを求められていたのである。ところで非常に興味深いことには、中共政府自身が同じ『北京週報』で右のパンチェン・ラマの演説とまったく反する事実を報じたことがあった。それは一昨年の秋、「チベットでの見聞(中) ますます栄える宗教」と題する、同誌呉廼陶記者のレポートである(注21)

    「自治区民族宗教事務委員会の当局者は次のように語った――(中略)一九五九年以前、チベット(西蔵自治区のこと、引用者注)には二千七百十七の寺院(ごく少数のイスラム寺院、カトリック教会を含む)があり、尼僧は十一万四千百七人いた。民主改革を経て、封建農奴制が覆され、政教合一制度が廃止され、寺院に占領されていた生産手段の大部分が農奴と奴隷に分配され、多くのラマが自由意志によって還俗し、多くの寺が徹底的に抑圧されてきた農奴によってとり壊された。一九六六年の『文化大革命』の前、チベットにはまだ著名な寺院を含め、寺院が五百五十三、僧尼が六千九百十三人も残っており、活仏が四百八人もいた。『文化大革命』中、多くの寺院破壊された」

ずいぶんごまかした文章表現を用いているが、数字的には言っていることはまったく明確である。これは「西蔵自治区」のみの数字であるが、一九五九年当時存在していた寺院の八〇%が文革以前に破壊されており、僧尼の九〇%がいなくなっていたというのである。語るに落ちるとはまさにこのことであろう。こちらの方こそが歴史の真実である。しかしここでもまだウソをついていることがある。それは破壊の主体、誰が破壊したかということである。それを解放された農奴だとしているが、そんなことはありえない。破壊の張本人が中共軍であったことは、きわめて多くの証言があるだけでなく、破壊の状況からも明らかである。ラサ近郊の大寺院のうち、完璧に破壊された例として知られるガンデン寺は、五九年軍隊に攻め込まれ、金目の物を略奪されたうえで、土台から戦車砲で吹き飛ばされたのであった(注22)

 


    ●注

    (1)『孫文選集』第一巻、一九八五年、社会思想社。
    (2)注(1)参照、二五ページ。
    (3)E・タイクマン『東チベット紀行』一九八六年、白水社。
    (4)『世界憲法集』第四版、一九八三年、岩波文庫、三〇四ページ。
    (5)注(4)参照、三八七ページ。
    (6)木村肥佐夫「分離権をめぐる中ソの民族政策」『チベット情勢研究』二巻二号。
    (7)注(6)参照。
    (8)『中国の赤い星』一九六四年、筑摩叢書、九八ページ。
    (9)小島朋之・古川未喜対談「中国版ペレストロイカは、第二の『洋務運動』だ」『諸君!』一九八八年八月号。
    (10)注(1)参照、三六ページ。
    (11)注(1)参照、九八ページ。
    (12)『中国近代政区沿革表』一九八七年、福建省地図出版社。
    (13)『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』一九八六年、亜細亜大学アジア研究所(中央公論社の中公文庫で八九年九月再刊)、ペマ・ギャルポ『チベット入門』の「チベット小史」一九八七年、日中出版。ほかに渡辺智央「中国侵略後のチベット」『チベット情勢研究』二巻四号以下に連載中。
    (14)『チベットわが祖国』附載資料。
    (15)注(12)参照。
    (16)J・ノルブ編著『中国と戦ったチベット人』一九八七年、日中出版。
    (17)Tibetan Bulletin 1984,pp.4-5.
    (18)『北京週報』(日本語版)一九八七年一〇月一三日号など。
    (19)名越健郎『メコンのほとりで』一九八七年、中央新書、一五二ページ。
    (20)『北京週報』(日本語版)一九八九年二月二一日号。
    (21)『北京週報』(日本語版)一九八七年一〇月二七日号。
    (22)『チベット入門』一九~二〇ページ。

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