『諸君!』平成二年(一九九〇)一月号
チベット寺院の破壊は文革以前、中共軍によることは明らかである。
それにあえて触れない朝日の、例によって中国のお先棒かつぎ――。
十月五日、ノルウェーのノーベル平和賞委員会から、本年度(一九八九年)のノーベル平和賞が、チベットの政教両面にわたる指導者、ダライ・ラマ十四世に授与されることが発表された。本年度の候補者には、レーガン前米大統領、ゴルバチョフソ連書記長、それに南アフリカの反アパルトヘイト運動のリーダーで現在獄中にある、ネルソン・マンディラ氏も含まれていたというから、ダライ・ラマ法王の非暴力の思想が、いかに高く評価されたかが分かる。これによってチベットの人々の民族自決の運動が、世界的な支持を獲得したことは明らかである。その証拠に中華人民共和国政府は大きな衝撃を受け、十二月十日に行われる授賞式への国王の出席を中止するよう、ノルウェー政府に圧力をかけるという、極めて非礼な行為に出ている。
では今回のダライ・ラマ法王へのノーベル平和賞授賞について、日本のマスコミはどのように報道しただろうか。そこには基本的に言って、冷淡なあるいは否定的な見方が顕著に表われていた。授賞を報じた十月六日朝刊では、朝日・読売の両紙は一面トップ及び国際面などでかなりのスペースを使っていたが、毎日と日経は簡略で、日経は識者のコメントとして文化大革命を礼賛したことで知られる安藤彦太郎早大名誉教授による、極めて否定的なものだけを紹介していた。翌七日朝刊の各紙の社説はこの問題を取り上げ、産経は例外的に「信仰心の厚いこの平和な少数民族の自決を支援するのは西側諸国民の義務であり、日本人には特にそうである」と述べたが、毎日は「今回のノーベル平和賞がチベット問題解決をいっそう困難にしたことは確かである」と断言した。この傾向は前日比較的丁寧に報じた朝日・読売の社説にも共通しており、特に朝日は次のように述べている。
「中国の反発は当然予想されたことであり、全世界がこぞって祝福する授賞にならなかったのは残念である。平和賞があまりに政治的になり、対立を助長することにもなりかねないことに違和感を持つ人も少なくない。平和のための賞が結果としてチベットの緊張を高めるおそれさえある。こんなことになれば、『平和賞』の名が泣こう」。このような見方がいかに歪んで偏向したものであるかは、わざわざ説明する必要もないだろう。南アフリカのマンディラ氏が受賞した場合、朝日の社説がどう書いたかを想像してみれば、極めて容易に理解できる。
にもかかわらず日本においては何故、チベット問題に関して世界の良識からはずれた社説が堂々と通用してしまうのだろうか。その原因は、我が国ではチベット問題に関して基本的に重要な事実が知らされておらず、チベット問題の本質が理解されていないからである。日本で知られていない重要な事実とは、例えば次のような事柄である。
- 一般にチベットと思われている「西蔵自治区」は、本来のチベットの領域の半分にすぎず、青海省の全域、四川省西半、甘粛・雲南両省の一部も含めた、中華人民共和国の面積の四分の一が真のチベットであること。
- 中共政府がチベット支配を正当化する時の根拠としている、チベットは十三世紀以来、一貫して「中国」の領土であったという主張は、歴史的に見て明白な虚偽であること。
- 中共政権のチベット支配によって、一九八〇年代の初期までに、百二十万人を超えるチベット人が命を奪われたと、チベット亡命政府が公表していること。
- チベット仏教が徹底的に弾圧され、何千もの寺院が破壊されたのは、普通信じられている文化大革命の時期ではなく、実はそれ以前であったこと。
- 中共政府の公表とは異なって、チベット全土には大量の漢族移民が流入していること。
- チベットの女性に対して、極めて非人道的な妊娠中絶や不妊のための手術が、強制的に実施されていること。
- デモで逮捕された者は残酷な拷問をうけるが、にもかかわらず小規模なデモはくり返し何度も起きていること。
寺院はいつ破壊されたか
かつてチベットに存在した多数の仏教寺院の殆どが中共政権下で破壊されてしまったことは、日本でも今日広く知られている。一九八〇年、中共政府が従来の政策を転換し、チベット現地に日本人の報道人や旅行者が入れるようになると、数多くの旅行記が出され、その中に必ずといって良いほど、「仏教寺院は文革によって破壊された」と記されるのが常だった。早い一例をあげれば、八一年チベットに入ったNHK取材班は、「チベット自治区内にあっても、解放前大小二七〇〇を数えたという寺の多くが文化大革命によって破壊された」(『チベット紀行』一二一頁)と述べている。以後このような見方は強固に確立し、現に日本の大新聞もそう報道している。ダライ・ラマ法王の受賞を報じた読売新聞十月六日朝刊には、「六六年に始まり七六年まで続いた文化大革命中、チベットでは多くの寺院や仏像が破壊され、チベット仏教は壊滅的な打撃を受けた」とある。朝日では本年三月の独立要求デモに関する北京斧特派員の記事(十日朝刊)に、「六五年九月にチベット自治区が成立したが、一年もたたぬうちに中国全土に文化大革命のあらしが吹き荒れる。寺院や歴史的文化財が破壊されただけではない」と見え、また本年一月死去したパンチェン・ラマ十世について述べた夕刊のコラム「窓」(二月八日)には、「チベット仏教は、文革で寺院を破壊されても滅亡しなかった」とある。
しかし一九五九年以後、ヒマラヤ山脈を越えて続々と亡命してきたチベットの人々は、中共政権の支配下で大量の人々が殺され、多くの寺院が破壊された事実を証言し、それは法学者国際委員会の手によって、「文革」が起きる以前に英文の報告書にまとめられていた。亡命チベット人の主張は、現在では日本語の文献として容易に知ることができる。例えば『チベットわが祖国-ダライ・ラマ自叙伝』(中公文庫)、ペマ・ギャルポ著『チベット入門』(日中出版)、C・トゥルンパ著『チベットに生まれて』(人文書院)などである。
では中共政府は、チベットにおける寺院の破壊を、何故「文革」期のことだとしなければならないのだろうか。中共政府の対外広報誌『北京週報』八九年二月二十一日号には、「逝去直前のパンチェン大師」という記事があり、そこに一月二十八日に死去したパンチェン・ラマ十世が、一月十七日に行ったという「最後の演説」が紹介されている。そしてその中に次の部分がある。
「文化大革命はチベット人民にとって災難であっただけでなく、漢族を含む全国の五十六の民族の共通の災難であった。文革による破壊はもっぱらチベット族あるいはチベットに向けられたものとは言えず、ましてや漢族がチベット族の文化を消滅させたとは言えない。文化大革命の破壊とりわけ寺院が破壊されたことを口実に、民族感情を煽動したり、民族関係を挑発することは、下心があってやるものとしか言えない」
この演説が実際に行われたかいなかにかかわらず、パンチェン・ラマ自身の本心がここに述べられているわけではない。これは中共政府の寺院破壊に対する公式見解である。つまりチベットの仏教寺院が殆ど破壊されたことは、すでに隠しようもない事実であるからこれを認め、それを文化大革命という中華人民共和国全体の悲劇の一部とすることによって、チベット人による非難を封じようとしているのである。『人民中国』八八年一月号で同誌の李奈記者は、「内地での寺や廟の破壊は、チベットとは比べようがありませんよ。徹底的に荒らされましたから」(四二頁)とまで言っている。このような主張は、文革後の「解放」政策以来中共側が一貫して採っているものであり、日本におけるチベット報道の姿勢は、この中共政府の意向に沿っていることは間違いない。
しかしここで注意しなければならないことがある。「パンチェン・ラマの最後の演説」なるものは、実は極めて大切なことを述べているのである。これを逆に読んで見るとどうなるか。もし仏教寺院が文革以前に破壊されていたとしたら、「破壊はもっぱらチベット族あるいはチベットに向けられたもの」であり、「漢族がチベット族の文化を消滅させた」ものであることに成らざるをえない。この点は後に述べることと密接に関連するから、しっかり覚えておいていただきたい。
日本のマスコミ人は、中共政府の主張は信用するが、チベット亡命者の言い分は信用しないらしい。しかし中共サイドの情報においても、大量の寺院の破壊は文革以前であったという事実が、日本語文献でもいくつか明確に報告されているのである。以下それを見ていくことにしよう。まず雑誌『季刊・中国研究』第四号(一九八六年八月)の「特集・中国の少数民族」の中で、牧田英二早稲田大学教授が書いた「少数民族の文学」という論文に、中共在住のチベット人作家ジアンペン・ジアツオ氏(牧田氏の表記のまま)による証言がある。なおこの証言は、八六年三月十九日、牧田氏に対して直接なされたものである。「チベットは民主改革以来、宗教領域での『四反』ということで、多くのラマ寺院が破壊された。文革までに、チベット地区にあった二四〇〇余の大小寺院で、比較的まともな形で残っていたのはわずか八カ所であった。ラマ寺院は文化、学問の中心であったが、それが破壊されたために、以後文化面で空白期ができてしまった」「しかし、文革期になると比較的平静になった。文化大革命の期間、チベット地区は、上層部では激しい内部闘争があったが、一般大衆は何の影響もない。したがってチベット地区はこの時期に息をつく時間が持てた」「文革期はもちろんひきつづき、焼いたり破壊したりすることはあったが、思考する時間がもてたのだ」(一二七~八頁)
中国も認めた破壊
すなわち文革期の方がそれ以前よりはるかに楽だったというのである。これはチベット人の証言であるが、私がこれを中共サイドの情報と考えるのは、『季刊・中国研究』という専門雑誌の性格にある。この雑誌は社団法人・中国研究所の編集・発行によるものであり、同研究所は元来中華人民共和国の支配層と密接な関係にある。その証拠に同じ号には、アジア経済研究所の八巻佳子さんによる、「現代化をめざすチベット」という題名の、明らかに支配する側に身を寄せた論文が掲載されている。したがってこのチベット人作家の証言がウソならば、この雑誌に載せられることは全くありえない。
ついで翌八七年秋、極めて注目すべき記事が『北京週報』に掲載された。この記事によって中共政府自身が、チベットにおける寺院の破壊は、文革期ではなくそれ以前であったという事実を、明白に認めたのである。同年の九月末から十月はじめにかけて、ラサで独立を求めるチベット人の大規模なデモが勃発した。この前後の『北京週報』には、チベットの事態を反映してチベット関係の記事が多く載せられたが、同誌の呉廼陶記者による現地報告である「チベットでの見聞」も四回にわたって連載された。その第二回「ますます栄える宗教」(十月二十七日号)に次の記述がある。かなり捻った表現を用いているから、注意深く読んでいただきたい。
「自治区民族宗教事務委員会の当局者は次のように語った―― 一九五九年の民主改革以前、チベットは政教合一の封建的農奴制社会であった」「一九五九年以前、チベットには二千七百十六の寺院(ごく少数のイスラム寺院、カトリック教会を含む)があり、僧尼は十一万四千七百人いた。民主改革を経て、封建農奴制が覆され、政教合一制度が廃止され、寺院に占有されていた生産手段の大部分が農奴と奴隷に分配された。多くのラマが自由意志によって還俗し、多くの寺が徹底的に抑圧されてきた農奴によってとり壊された。一九六六年の『文化大革命』の前、チベットにはまだ著名な寺院を含め、寺院が五百五十三、僧尼が六千九百十三人も残っており、活仏が四百八人もいた。『文化大革命』中、多くの寺院は破壊された」(一七~一八頁)
実態をごまかそうと表現に苦心しているが、数字的には述べられていることは実に明快である。これは西蔵自治区のみの数字であるが、一九五九年から六六年に文革が始まるまでの間に、寺院の八〇%は破壊され、僧尼の九〇%はいなくなったというのである。つまり西蔵自治区の宗教を管理する直接の責任者が、圧倒的に多くの寺院が破壊されたのは文化大革命中ではなかったことを明言しているのである。なお一九五九年とは、三月十日にラサでチベット人の大蜂起が発生した年であり、チベット語でウ・ツァンと呼ばれる中央及び西チベットでは、これ以後混乱と破壊に巻き込まれてゆく。ただし、アムドやカムと呼ばれる東部チベット(青海省・四川省など)では、それ以前五〇年代の後半から仏教弾圧が始まり、寺院が破壊されていることは、『チベットに生まれて』などの資料に明記されている。
右に見た八七年秋の『北京週報』の記事は、同じ『北京週報』でも「パンチェン・ラマの最後の演説」とは、完全に矛盾している。しかしどちらが歴史的真実であるかは言うまでもない。ウソをつくとしたら、自己の都合の良いようにつくものである。
その意味で呉廼陶記者の記事の中の自治区当局者の話にも、明らかにウソの部分がある。それは誰が寺院を破壊したのか、破壊の主体の問題である。寺院の破壊は文革期のことではないとした以上、それを紅衛兵の責任にすることはできない。したがって破壊の主体を「徹底的に抑圧されてきた農奴」に求めざるを得なくなったのである。あるウソをやめると、別のウソをつかなければならなくなる典型である。では破壊の主体はいったい誰なのか。それはまた後に取り上げることにしよう。
さらに寺院の大半は文革以前に破壊されたという事実を、自治区の幹部から日本人が直接に聞かされた事例も明らかになっている。その日本人は東京経済大学教授・色川大吉氏で、氏が一九八八年六月ラサを訪れた時のことである。
なお色川氏がチベットに行ったのはこれが二回目で、最初はその二年前八六年四月から六月にかけて、東北大学日中友好西蔵学術登山隊(朝日新聞社後援、いすゞ自動車協力)の人文班の班長として、青海省と西蔵自治区を学術調査した。この調査旅行の色川氏個人の旅行記が『雲表の国』(八六年三月、小学館)であり、学術調査報告書が同氏編『チベット曼茶羅の世界』(八九年三月、小学館)である。なお後者には八八年六月の色川氏の見聞も盛り込まれている。
寺院はいつ壊されたか
さて一九八八年六月二十八日、色川氏を含む日本の訪問団四氏は、西蔵自治区人民政府と同共産党の要人数人と、ラサのノルブリンカ宮殿内の西蔵文物管理委員会の応接室で会見し、西蔵自治区の諸状況を聴取した。日本側は色川氏の他に岩垂弘・朝日新聞社編集委員、山口瑞鳳・名古屋大学教授、奥山直司・東北大学文学部助手の三人で、この内岩垂・奥山の両氏は八六年の学術調査旅行の参加者でもある。日本側がいくつか質問した中に、寺院破壊の問題も含まれていた。それについて色川氏は、『週刊ポスト』八六年八月五日号の「最新西蔵紀行」の中で次のように記している。(二〇一頁)
「次にズバリと痛いことを聞く。昨年からの暴動の実態とその影響はどうかと。これは予想した通り中国側をいくらか騒然とさせた。あわせて寺院破壊の数字を聞く。この返答は意外であった。まず私を驚かしたのは『解放』(一九五一年)前、二千七百寺院あったものが、文革開始時(一九六六年)には約千寺院に減少していたというのである。つまりチベットの寺は、文革以前に大半が破壊されてしまったということの承認である。文革終了時に完全な形で残ったのは三つか四つだけという数字も驚きだった。それを現在は千寺院まで回復したと答えたが、二年前実情をつぶさに見ている私には到底信じられなかった」
同じときのことを色川氏は、『チベット曼茶羅の世界』の方では次のように書いている。(二七七頁)
「寺院の破壊と復旧についてはどうだろう。この質問を発するや、全員が一度に話しはじめ、なかなか一致しない。やがて答えた数字は、自治区内に、『解放』前は二七〇〇寺院ほどあったものが、『文革』開始時、一〇〇〇寺院ほどに減少しており、さらに『文革』による破壊でほとんど損傷を受け、完全に残ったのは三つか四つの寺に過ぎない。しかし復興事業を急いだため、現在は一〇〇〇寺院ほどが回復したという」
ここで述べられていることは、先に『北京週報』で見た呉廼陶記者による記事と相違する点がある。特に文革直前に残っていた寺院の数は、五五三と約千であるからかなりの開きがあり、それ以前の被害者は八〇%に対して六三%となる。これをどう考えるべきだろうか。約千という数字を答える前に、自治区の幹部達はなかなか意見の一致を見なかった。日本人に対してどこまで真実を言うべきか迷い、かなりぼかした数字を答えたものであろう。したがって『北京週報』の数字の方を採るべきである。ただしいずれにしても寺院破壊の主たる時期が、文革期でなかったことだけは明白である。
ところで色川氏たちの八八年のチベット行きは、同年の七月から十一月にかけて東京・尼崎・浜松の各地で開かれた、「中国チベット秘宝展」の準備のためであった。この展覧会は朝日新聞社が主催したもので、その意味でこの旅の中心人物は朝日新聞社の岩垂弘編集委員であったと言ってよい。朝日新聞社が同展を開催するからこそ、当時すでに外国の報道人を締め出していたチベットに、岩垂記者たちは特別に入ることができたのである。岩垂記者はこの時の取材にもとづいて、朝日新聞に二回署名記事を書いている。一つは七月十四日朝刊「時々刻々」欄の、「ラサは意外に平穏だった、チベット騒乱の中心地を見る」という記事、もう一つは七月二十二日夕刊の、「ポタラ宮の神髄一二〇点、中国チベット秘宝展」という記事である。
では岩垂記者のこの二つの記事の中に、色川氏が聞いて驚いた寺院の破壊の時期の問題は、どのように紹介されているだろうか。それが丸で出てこないのである。二十二日の記事は展覧会の案内を兼ねてポタラ宮の歴史やチベット文化の特質について述べたものであり、十四日の記事はチベットの現状についての報告であるが、事の重大性からいってどちらで触れられてもけっしておかしくない。にもかかわらず全く言及されていないのである。ということは岩垂記者は、寺院破壊の時期の問題は報道するに値しない情報だと判断したのだろうか。だとすれば、それは全く奇妙な、常識的にはおよそ理解不能な判断だと言わざるをえない。私がこのように考えるのは、もちろんそれなりの理由がある。
一九八六年春、東北大学日中友好西蔵学術登山隊人文班の一員として、青海省と西蔵自治区を旅行した岩垂弘編集委員は、同年六月九日から十七日にかけて、八回にわたって「中国・青海・チベットを行く」と題する連載記事を、朝日新聞夕刊社会面に執筆した。その第五回(六月十三日)「信仰厚き人々」の中で、岩垂氏は次のように書いている。
「いずれにしても、信仰深い人々にとって、チベット仏教を『迷信』だと全面否定したプロレタリア文化大革命の十年は、悪夢のような時期だったに違いない。自治区政府によると、自治区内の寺院約二千のうち、その七〇から八〇%が文革によって破壊された」
つまり八六年には、岩垂記者は自治区政府から聞いたことを、朝日新聞の読者にそのまま報じている。ところが二年後、自治区の幹部は前回と逆の、世に流布している定説とは全く異なる事実を語った。色川氏が驚くのも無理はない。これは岩垂氏にとって明らかな特ダネであるにもかかわらず書かなかった。しかし少なくとも岩垂氏には、二年前自分が報じたことと逆の情報を自治区幹部が証言したという事実は、朝日新聞の読者に知らせる義務があるはずである。
問題はそれだけではない。私はチベット問題に関する日本語文献は努めて読んで来たつもりだが、岩垂氏ほど情熱を込めて、チベットにおける寺院の破壊の惨害を糾弾している人間を他に知らない。岩垂氏は八六年の旅行の見聞を、『青海・チベットの旅』(八七年四月、連合出版)という著作にまとめているが、この中で特に「文革と寺院」と名付けた一章をもうけて、寺院破壊の状況を詳しく述べている。以下にそれを紹介しよう。
「思わず息をのんだ。あまりのひどさに、である。山上の大伽藍がことごとく破壊されている。それは、まるで空爆で徹底的に破壊されてしまったような光景である。まさに、無残な巨大な廃墟と呼ぶにふさわしい」八六年五月十二日、岩垂氏がラサ郊外チベット仏教四大寺の一つ、かつて四千人の僧侶が住んでいたというガンデン寺のあり様を一見した時の記述である。同寺については更に次のように続く。「寺は、数十いや数百もの石づくりの空舎やストゥーパでつくられていた。いや、正確には、造られた跡があったというべきだろう。一見したところ、伽藍の八割から九割が破壊されている。まことにすさまじいの一語に尽きる。こんな高い山上に、こんなにも巨大な寺院をつくった、すなわちこんなにも高い山上にこれだけの石材を運び上げたチベット人のエネルギーに圧倒されるとともに、その大伽藍をこのように破壊してしまった人間の仕業に戦慄を覚えた。いったい、どのようにして壊したのであろうか。とてもハンマーの類では無理だ。ダイナマイトか、それとも大砲か、いずれにしても、これはもう狂気としかいいようがない」「だれが、この破壊をおこなったのか。チベット自治区政府外事弁公室によれば、プロレタリア文化大革命の際、紅衛兵によって破壊されたのだという」
しかしこのガンデン寺の破壊については、在日チベット人のペマ・ギャルポ氏が、一九八〇年チベット亡命政府の現地視察団の一員として同寺を訪れた後に、次のように述べている。(『チベット入門』一九~二〇頁)
「ここで私達が目撃者から聞いた話に基づいて、中国がガンデン寺を破壊したプロセスを紹介したいと思います。一九五九年三月のチベット民衆の決起の後、ガンデン寺院は中国軍の手に落ち、最初は軍の倉庫として使われていましたが、ラサにある金属部門の幹部数人が同寺院へ来て調査したうえで、専門家によって仏像に飾ってあった宝石類を全部きれいに、丁寧に剥がして持っていったということです。次に別のチームが来て売れそうな仏像や金属の食器類を運び去りました。そして第三段階目にカーペットや家具等の役に立ちそうなものを全部運び終わってから戦車の大砲で砲撃して、破壊し、その後、中国軍は民衆に残りのものを拾って来いと命じました。民衆は御守や魔除けにと思い積極的にその残りを拾いに行きました。しかしラサの中国人幹部達は、民衆が率先して破壊したもので、もし軍部が介入しなかったならば、ポタラ宮殿も同じ運命に遭うはずだったと私達に言いはっていました」
すなわちガンデン寺は紅衛兵によって破壊されたのではなく、中共軍によって破壊されたのである。先に『北京週報』の呉廼陶記者の記事について述べたときに保留しておいた、文革期以前における寺院破壊の主体とは、したがって中共軍であり、「徹底的に抑圧された農奴」ではない。もう一つ注意しておかなければならないことがある。ガンデン寺の廃墟を見て、岩垂記者は「これはもう狂気としかいいようがない」と言ったが、それは違う。ガンデン寺においては、アウシュビッツを連想させる計画性のもとに、極めて合理的に「文化の虐殺」が遂行されたのである。
文化を破壊した漢族
チベットの仏教寺院が、文革期に破壊されたのか、それ以前に破壊されたのかといった問題は、たいした事ではないと思う人がいるかもしれない。しかしこれはチベット問題の理解にあたって、決定的に重要なポイントである。寺院の破壊が文革期ではないのなら、『北京週報』の「パンチェン・ラマの最後の演説」に逆説的に述べられていたように、「破壊はもっぱらチベット族あるいはチベットに向けられたもの」であり、「漢族がチベット族の文化を消滅させた」ものになることは明らかである。西蔵自治区では五九年以後六〇年代前半の間に、現青海省・四川省地域の東部チベット(アムド及びカム)においては、更にそれ以前の五〇年代後半から、仏教寺院は中共軍の破壊を蒙っていた。しかもこの期間に破壊されたのは寺院だけではない。人間そのものも精神的・肉体的に苛烈な破壊に襲われていたのである。その当時チベット人の身に起きた惨害については、すでに一九五九年と六〇年に、ジュネーブの法学者国際委員会がまとめた英文の報告書に詳しく述べられている。すなわち今問われるべきは、漢民族によるチベット支配そのものである。チベット人にとって、漢民族の支配とはいったい何であったのか。そして現在何であるのか。それを考えなければ、チベットの人々が何度弾圧されても、命をかけて独立要求デモに立ち上がる理由が、丸で理解できないだろう。
しかし岩垂記者は、八八年六月ラサで新たに知った事実を報道しなかった。自治区政府幹部との公式見解の席上で取材したにもかかわらず。ちなみに同氏は、『青海・チベットの旅』の「あとがき」(八七年三月)の中で、こんな風に書いている。「ともあれ短時間の旅行での見聞だったので、私が書いたことの多くは独断と誤りに満ちていることはよく承知している。が、この報告によって、チベットについての無知がいまなお横行しているわが日本で、チベットについて関心を持つ人が一人でも増えるようなことがあれば幸いである」(二一二頁)
確かに『青海・チベットの旅』は、大きな誤りのある書物である。しかし岩垂氏が冒している最大の誤りは、氏自身が誤りを誤りと知りながら訂正していないことである。チベットについての無知が我が国で横行しているのは、無知を横行させる人間が存在しているからである。故意に虚偽の報道を行うのが報道の犯罪なら、故意に真実を隠して報道しないのも、同様に報道の犯罪である。
チベットにおける寺院の破壊に関する報道について、その事実関係を明らかにするために、岩垂弘記者の言論活動を中心に見てきた。では岩垂記者は何故、このような歴史の真実を押し隠す行為を、あえて行ったのだろうか。それは岩垂氏の個人的問題であるとは考えられない。そこで考えてみなければならないのは、岩垂氏による真実を隠した報道が行われた時の状況であろう。同氏が二度目にチベットを訪れたのは、先述したように朝日新聞社の主催によって開催されることとなっていた、「中国チベット秘宝展」の準備のためであった。そこで以下この展覧会そのものの性格について検討することにしよう。
「中国チベット秘宝展」は、八八年七月二十三日から八月二日まで西武池袋店で開催され、ついで兵庫県尼崎と静岡県浜松においても催された。中華人民共和国側がこの展覧会を行った目的は、大きく分けて二つあったといえよう。一つは経済的目的であり、もう一つは政治的目的である。第一の経済的目的とは、入場料収入によって外貨を獲得すること、及び日本国内においてチベット文化への関心を高めて、前年秋の独立要求デモ発生以来、途絶えがちになっていた、チベットへの日本人観光客を復活させることであった。第二の政治的目的は、「中国チベット秘宝展」というこの展覧会のネーミングが、実に雄弁に物語っている。すなわち、チベットはあくまでも「中国」の一部なのだ、という観念を日本人の頭の中にしっかりと植え付けることであった。
この政治的目的については、さらに『人民日報』に説明してもらった方が良いだろう。七月二十五日の同誌は、「『中国チベット秘宝展』東京で開幕」という記事の中で、次のように述べている。「朝日新聞社の主催する『中国チベット秘宝展』は、七月二十三日東京で開幕した。数多くのチベットの貴重な文物と資料は人々がチベットの悠久な歴史と輝かしい文化を展示し、チベット族が多民族国家の中国という大家庭の一員として、その歴史上の発展段階で姉妹民族と仲よくつきあって来た悠久な関係を明らかにした」「また元代の皇帝がチベットの統率者に下賜した統叙釈教大元国師印、そして、その後中国歴代の封建王朝がチベット仏教指導者に下賜した印章は、七百余年前、チベットはすでに中国の版図に入っており、チベット人民は中華民族大家庭の一員であったことを証明している」(訳文は『北京週報』八八年八月二日号による)。
つまりこの展覧会の有する政治的目的とは、具体的には、七百年前の元王朝以後、チベットは「中華民族大家庭」すなわち「中国」の領土の中に一貫してあったという歴史観を、日本人に教え込むことであった。
では何故この歴史観が大切なのだろうか。一九八七年秋、チベットのラサで大規模な独立要求デモが発生した時、『北京週報』十月二十日号にのった「チベットについての対話(一)、われわれとダライ・ラマとの食い違い」と題する文章の次の部分は、そのことを説明してくれるだろう。
チベットは「中国の一部」か
「チベットは中国領土の不可分の一部であり、これは長期にわたる歴史的発展の結果である。七世紀にはすでに、チベット族と漢族の友好往来に大きな発展が見られた。元朝(十三世紀)には、チベットは正式に中国の版図に入り、チベットの政治制度と宗教制度などは、みな中央政府によって制定されるようになった。その後の歴史の発展過程では、中央政権に何回も王朝の交替があり、チベット地方政府にも何回も交替が起き、国外勢力が機に乗じて離間をはかり、侵略、干渉を行ったこともあったが、チベットが中国の不可分の一部であるという歴史的事実は変えられなかった」(十三頁)
すなわち十三世紀の元代以後、チベットは「中国の不可分の一部」であるというこの歴史観こそ、中華人民共和国がチベットを併合している事実を正当化する根拠なのである。中共では、他民族の領土を併合している理由付けを、共産主義の民族理論にではなく、歴史そのものに求めている。それではこの歴史観は正しい歴史観なのだろうか。実はこの歴史観は、明らかに歴史の事実に反した、誤った歴史観である。理由はいくつもあげられるが、最も明白な理由を一つあげるとすれば、明王朝の時代にチベットはその領域に全く含まれなかったことである。
元と清の時代、チベットが両帝国の広大な版図の内にあったことは、一般に認められているといってよい。ただし両王朝のチベットに対する支配は、極めて間接的なものであり、しかも両帝国の皇帝はともにチベット仏教の信者であったことを忘れてはならない。元と清の中間の明代、その安定的領域は、北は万里の長城、西はチベット高原との境界で区切られていた。つまり現在の西蔵自治区はもちろん、青海省や四川省西半もそこには含まれていないのである。平凡社の『世界歴史大事典』第十八巻の「明代」という項目中に、『大明一統志』にもとづく「明代の領域」という地図があるが(一八一頁)、この地図はそのことを明確に示している。
すなわちチベットは十三世紀以来、「中国」の不可分の一部だったという歴史観は、歴史的事実に反しており、「中国チベット秘宝展」で説明されていたことは、歴史の偽造、捏造である。したがってこの展覧会を主催した朝日新聞社は、歴史の偽造に積極的に加担したことになる。そのような朝日新聞社の客観的立場と、さらに「姉妹民族と仲よくつきあって来た悠久な関係を明らかに」するという同展の主旨の前には、チベット問題の本質を明らかにしてしまう、寺院の破壊は文革期ではなかったという歴史の真実は、公開できないタブーとせざるをえなかったのである。
朝日新聞の朝刊社会面に、「『制』の社会学」と名付けられた記事が連載されていたことがある。いわゆる右側の圧力によって、自由な言論が封ぜられがちな状況を危惧し、それを告発するといった内容であったと記憶する。だとすれば朝日新聞社によるチベット報道は、みずから自己規制という「制」を熱心に実践しているわけである。サンゴ事件を契機として、報道のあり方を根本的に見直すというのなら、まずチベット報道から取りかかるべきであろう。
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