- 2010年4月26日 09:08
- 時評
ただし私は、日本人が4月28日を主権回復の日として、明確に認識しなかった、あるいは出来なかったのには、それなりの原因・理由があると思う。それは基本的に言って、日本の歴史の、戦前・戦中と占領期、さらには独立後の連続性と言うことである。日本に対する占領は明らかに間接占領であって、占領期間中に総理大臣が居て日本政府があったし、選挙が行われて国会もあった。これは戦争中も同じで、決して軍事独裁政権ではなく、政府も国会も機能していた。
さらにその上に皇室が存在していたことが、極めて重要である。戦前・戦中・占領期・独立後を通じて皇室が存在し、しかもそれが昭和天皇という一個の人格で貫かれていた。これによって日本人は、敗戦による占領、すなわち歴史上はじめての屈辱的な被侵略体験を、それほど絶望せずに乗り切ることが出来たのである。これはある意味で、日本人にとって幸福なことであったが、同時に占領期間を特別に不幸な時期と、強く認識しないことにもなった。だからこそ、戦後の日本人は4月28日を、独立を取り戻した日、主権を回復した日と、明確に認識してこなかったのである。
ではなぜ14年前から、「主権回復記念日国民集会」は行われるようになったのか。それは戦後日本の状況が、平成の時代になって却って悪くなってきたからであろう。歴史問題では、シナ人・朝鮮人の攻撃に屈するばかりであり、経済の復興という唯一の自慢も、バブルの破裂とともに消滅した。にもかかわらず、主権国家としての意識は希薄なままである。そのような状況判断のもとに、主催者はこの集会を始めたと思われる。
しかし私はかなり以前から、この「主権回復記念日」という言葉に対して、正直に言って強い違和感を抱いてきた。なぜならこの一見スマートな言葉には、日本が真の主権国家であるべきだという強固な国家意識、さらにはその根底の民族意識が感じられないからである。したがって、この際原点に返って、4月28日は如何なる日であるのか、本当に主権が回復された日なのであるかを、さらに突き詰めて考えてみるべきであると思う。
昭和26年9月8日、講和条約が調印されるのと同時に、日米安全保障条約が調印された。したがって翌27年4月28日に、講和条約が発効すると同時に、安保条約も発効したのである。この安保条約の発効は、このとき日本が軍事的主権を回復できなかったことを意味している。つまり軍事的主権を喪失している点では、占領期と独立後は見事に連続している。その意味で4月28日は、記念日というなら「占領継続記念日」だと、言わざるを得ない。
我々「主権回復を目指す会」は、現在の日本は主権国家ではないと考える。したがって軍事的主権も取り戻して、完全な主権国家に成ることを目指すべきであると思う。つまり4月28日は、主権回復を「記念」する日ではなく、主権回復を「祈念」する日、あるいは主権回復を「期成」する日であるべきだ。現在この日を、祝日にする運動が進められているようだが、祝日としては、余りにもそぐわないのではないか。むしろ屈辱の日として、「国恥記念日」のほうが遥かに相応しい。戦前の中華民国で、1915年に対支二十一カ条要求を受諾した5月9日を、国恥記念日としたように。
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