- 2010年7月 6日 23:37
- 時評
サッカー報道における、マスコミの張り切りぶりは、実に異常なほどであった。ただしその報道の質すなわちレベルは、極めて低いものであった。同じことを何度も何度も繰り返す大量報道が行われた。それはワイドショー的な番組だけでなく、純粋なニュース番組でもそうだった。成績の結果を報道するだけでなく、事前の盛り上げ報道も実に多かった。ワイドショー的番組が少ないNHKに、かえってそのような傾向が強く現れていた。その裏側では、採り上げるべきニュースが、多々あったにもかかわらず、切り捨てられていたのであろう。一年前の、酒井法子の覚せい剤報道を思いだした。
国際スポーツの場面で、日の丸が振り回されることを以って、日本の若者にも健全な国家意識・民族意識が保持されていると理解する人が、いわゆる保守の人々の中にいるようだが、とてもそのようには考えられない。スポーツではサッカーだけでなく、野球のワールド・ベースボール・クラシックでも、はたまたオリンピックの諸種目でも、「ニッポン、ニッポン」の声援が巻き起こり、日の丸が打ち振られる。しかしそれは、スポーツだけに限定された、スポーツだけのナショナリズムではないのか。そこにかえって、日本の極めて歪んだナショナリズムの現状が、見事に露呈されていると考えるべきである。
スポーツだけナショナリズムになってしまうのは、正当なまともなナショナリズムをことさらに危険視する、いわゆる「左翼的」なものの見方が、影響力を及ぼすようになったからである。ただし私の体験を踏まえた理解では、戦後一貫してナショナリズムが危険視されてきたわけではないし、日の丸・君が代がずっと否定的に捉えられていたわけではないと思う。敗戦直後の占領時代においては、そうだったかも知れないが、明らかにその後に復活した。私の憶えている限りでは、学校の現場で、日の丸も君が代を立派に使われていた。つまり日の丸・君が代が否定的に捉えられるようになったのは、歴史問題が外交問題化する、80年代以後のことであると思う。その証拠に、1972年の沖縄復帰に至る復帰運動においては、そのシンボルとして日の丸が盛んに使われたのである。それがその後の東京裁判史観の再構築に伴って、積極的に負のイメージが与えられ、否定的に捉えられるようになったのである。
つまり政治や教育に直接かかわるような場面では、日の丸・君が代が危険視されるが、スポーツの場面ではそこから切り離された形で、あたかもスポーツ専用の旗、スポーツ専用の歌の如くに理解されて、盛んに利用されるようになったのではないか。またそこには、外国との国際試合において、外国人が盛んに国旗や国歌を利用することに、日本人が感化・教育された面もあるであろう。
ところでこれは前にも言及したことがあるが、軍事力とナショナリズムは良く似ている。他国を侵略・攻撃するのが軍事力であれば、他国の侵略から自らを守るのも軍事力である。同様に侵略的ナショナリズムが存在する一方で、防御的なナショナリズムも存在する。現在の日本には、自衛隊と言う自前の軍事力が一応存在している。しかし決定的に欠けているのは、国家意識・民族意識としての、本物のナショナリズムである。スポーツだけナショナリズムというまがい物では、とてもものの役に立たない。
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