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辛亥革命における孫文の変節

『国民新聞』19167号 平成23年9月25日

111004.jpg 今年が一九一一年の辛亥革命から百周年ということで、その首謀者・孫文が話題になっている。例えば現在、東京国立博物館では、「孫文と梅屋庄吉」なる展覧会が開催されているが、梅屋庄吉とは、孫文の経済的な支援者であった日本人である。しかし孫文の実像と辛亥革命の実態に関しては、真実を隠蔽して徒に美化した情報が、無責任に垂れ流されていると言わざるを得ない。以下、革命時おける孫文の巨大な変節について説明しよう。

 孫文たちが革命を目指していた、一九〇六年の「中国同盟会軍政府宣言」では、革命のスローガンを「駆除韃虜、回復中華」と掲げていた。韃慮とは韃靼人の蔑称であり、韃靼とは元来モンゴルを意味しているが、この場合は清帝国の支配者である満州人のことである。つまり「駆除韃慮、回復中華」とは、満州人を追い出してシナ人の独立を回復することであった。すなわちシナ人としての、民族独立革命である。歴史的な前例を考えれば、モンゴル人を万里長城の北に追い出して、明がシナ人の独立を回復したのと、全く同一の現象であると言える。
 さて、一九一一年の秋に辛亥革命によって清帝国が倒れ、翌年正月に中華民国が発足したのだが、臨時大総統になった孫文は、その就任宣言において、これまでと全く逆のことを言い始める。それは、「漢満蒙回蔵の諸地を合して一国、漢満蒙回蔵の諸族を合して一人」の如くするというもので、スローガンとしては「五族共和」と表現される。その意味するところは、中華民国はシナ人・満州人・モンゴル人・回教徒・チベット人の五つの民族が共同して運営し、その領土は清帝国の領土をそのまま引き継ぐというものである。
 清帝国の広大な領土は、満州人の軍事力によって形成されたものであり、シナ人が支配者であった明の時代の領土は、清の四分の一ほどの面積しかなかった。これは高校の世界史教科書に載っている地図を見れば、簡単に分かることである。つまり辛亥革命によって、シナ人の民族独立は実現したのであるから、中華民国の領土としては、明の領土を回復すればよかったのである。しかし他の民族のものである広大な領土に対する欲望から、「五族共和」を打ち出したのであり、他民族へのあからさまな裏切りであった。
 現在の中華人民共和国における民族問題の淵源は、まさにこの孫文の変節にある。すなわち、チベット・東トルキスタン・南モンゴルにおける悲劇を生み出した、根本的な責任者こそ孫文に他ならない。ただし中華民国の時代には、シナ人は侵略の野望を抱きながらも、それを実現する実力を持たなかった。共産党が中華人民共和国を成立させて、巨大な軍事力を手に入れたとき、第二次大戦後の民族独立の潮流に逆行して、一挙に邪悪な野望を成し遂げてしまったのである。

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