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中ロ間の領土問題につけ込め

『月刊日本』2012年10月号 羅針盤 2012年9月22日

120925.jpg 尖閣問題を巡ってまた中共では反日デモが繰り返され、日本大使に対する襲撃事件まで発生した。かつて列強に領土を侵食された体験を、シナ人はことさらに強調するが、それは本心からのものではなく、自らの根本的な侵略体質を誤魔化すためである。そしてその最も明白な証拠が、以下に述べるロシア極東地方の問題に他ならない。

 十九世のアヘン戦争以後、清国が列強に奪われた領土は幾つかあるが、最も広範囲に獲得したのはロシア帝国である。それより以前、十六世紀のロシア帝国の東方拡大により、ロシア帝国と清帝国は境を接するようになって、国境画定問題が起った。日本の高校世界史教科書には必ず出ているが、それが一六八九年のネルチンスク条約である。その境界が、シナ語で外興安嶺、ロシア語でスタノボイ山脈である。
 それから約一七〇年後、清帝国の衰亡に伴って、一八五八年のアイグン条約で、ロシア帝国はアムール川の北方、外興安嶺にいたる広大な面積を獲得し、ウスリー川以東の土地を、ロシア・清国の共同管理とした。更に一八六〇年の北京条約で、この共同管理地もロシア帝国のものとなった。これが沿海州である。これらの事実も、高校世界史教科書に必ず出てくる、世界史の基礎知識である。一八五八年、六〇年といったら、日本では日米修好通商条約調印と桜田門外の変の年であるが、日本のすぐ近くで重大は領土的変化が起きていたわけである。
 それではこのときロシア帝国が獲得した領土は、どのくらいの面積があるのであろうか。日本の歴史教科書には、詳しい面積が出ていない。しかしさすがに中共の歴史教科書には、具体的な面積が解説されている。『世界の教科書=歴史 中国2』(一九八二 ほるぷ出版)の三〇頁に掲載されている地図、「帝政ロシアによる中国東北領土占領説明図」には、アイグン条約で併合された部分が「60余万平方キロメートル」、北京条約で併合された部分が「約40万平方キロメートル」と記入されている。つまり両方あわせると百万平方キロメートルと言うことになり、現在の中共の全領土が九六〇万平方キロメートルであるから、その一割を超える広大な領域である。
 これも日本の高校世界史教科書の地図を見れば分かるが、清帝国の領土は二つの性格の異なる地域で構成されていた。それは「直轄領」と「藩部」とである。直轄領もまた二つの部分で構成されており、省の置かれたいわゆる「シナ本部十八省」と、清国の支配民族満州人の出身地・満州とである。藩部はモンゴル人・回教徒・チベット人などの居住地域で、間接的な支配が行われていた。十九世紀におけるロシア人の極東での侵略とは、直轄領・満州の東北部分を獲得したわけである。後に日本人が満州国を作るが、それは本来の満州の残りの南西部分を主として、内蒙古の東部も合わせて建設された。
 ところで帝国主義時代に、ロシアによって清国から強奪された広大な領土は、現在どうなっているのであろうか。とっくに帝国主義時代は終了しているはずなのに、それはロシアの領土のままで存在している。今回APECが開催されたウラジオストックは、清国時代は海参崴(ハイサンウェイ)と言う重要港だったと、先の中共の歴史教科書には記載されている。つまり帝国主義時代の国境線を、基本的に中共政権は承認している訳である。広大な領土を外国に取られたままで放置しているのであるから、列強の侵略を蒙ったことに対する恨みは、一体どこに行ってしまったのか。
 シナ人がロシア人の現在も続く侵略に目を塞ぐのは、シナ人自身が現在における帝国主義者、すなわち明白な侵略者であるからに違いない。チベット・東トルキスタン・南モンゴルを建国時に侵略併合し、その後は大量にシナ人を送り込んで、完全な既成事実化にいそしむ、侵略現行犯国家だからである。
 今回の尖閣問題に関しては、竹島問題の韓国と並んで、北方領土問題のロシアも、日本批難で共同歩調をとる動きを見せている。現在、中共政権が国民に対して、正確なロシア極東領土に関する知識を与えているとも思えないから、日本が無知蒙昧なシナ人に対して、歴史の真実を教育してあげる必要があるだろう。つまり尖閣問題で頭に血が上っているシナ人に対しては、ただ正面から反論するだけでなく、現在も中共とロシアの間に存在する、巨大かつ根本的な領土問題の存在を、突きつけてやればよいのである。

※8月25日補記 アイグン条約は、1858年5月28日に締結。北京条約は、1860年11月14日に締結。両条約でロシアに脅し盗られた広大な土地は、現在もロシア領のままなのだから、5.28及び11.14は、柳条湖事件の9.18と比較して、百万倍も「国恥記念日」として相応しい。シナ人と付き合いのある人は、この素晴らしい歴史の真実を、是非ともシナ人に教えてあげていただきたい。ついでに言っておくと、清がアヘン戦争でイギリスに負けて香港を割譲し、列強によるシナ侵略の端緒となったとされる、南京条約の締結日は、1842年8月29日である。

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