ナショナリズムと言うと、すぐに「偏狭な」と言う枕詞が付けられて、否定的に言及されるのが、今の日本では当たり前になっているが、それは明らかな間違いである。ナショナリズムの本質を考えるためには、軍事力を考えることが参考になる。軍事力は他国を侵略することに使えるが、自国を他国の侵略から防衛するためにも必要なのである。要するに、ものは使いようである。料理に使う包丁でも人を刺し殺せるし、ネクタイも人を絞殺する凶器になるのだ。
ただし軍事力があってもそれだけではだめである。軍事力を使うには、それなりの気力・精神力が無ければならない。いくら立派な兵器を所有していても、それを使うことを決断する精神力がなければ、宝の持ち腐れである。その精神力こそがナショナリズムである。現在の日本では、上から下まで、左から右まで、このナショナリズムの必要性に対する認識が、決定的に欠けている。
そうなってしまったのには、いろいろの原因が考えられるが、重要なのは大東亜戦争における敗戦体験であろう。この戦争ではわが国は、アメリカに対する生産力の隔絶、すなわち軍事力の巨大な格差を補うために、ナショナリズムとしての精神主義をきわめて強調した。と言うか強調せざるを得なかった。敗戦後はその反動として、それを必要以上に危険視するようになってしまった。まさに羹に懲りて膾を吹くである。しかも精神主義そのものは、奇妙な形で生き残った。軍事力を否定する日本国憲法に由来する、きわめて観念的な平和主義である。ナショナリズムの裏返しとしての、客観的な状況に目を瞑る、盲目的は平和主義である。ナショナリズムについては、しばしば「盲目的ナショナリズム」と批判されるが、わが国の平和主義こそ、根本的に偏狭で盲目的と言わなければならない。
ところで現在わが国がおかれている、東アジアの客観的状況はどうなのか。それはナショナリズムの全盛時代といって良い。中共・韓国・北朝鮮など、どの国でも過剰なナショナリズムに溢れている。反対にわが国のみあまりにもナショナリズムが欠如している。韓国・北朝鮮両国の朝鮮ナショナリズムも問題であるが、最大の脅威は中華人民共和国(中共)のシナ人のナショナリズムである。中共は現実の侵略国家であり、その存立を支えているイデオロギーである中華民族主義は、必然的に侵略的ナショナリズムとなる。この侵略的ナショナリズムと戦うためには、防衛的なナショナリズムが絶対に必要なのである。
平和主義者は忌み嫌うが、現在の我が国には軍事力が客観的に存在する。憲法の規定にも関わらず、自衛隊が存在するからである。また日米安保条約によって、日本列島にアメリカ軍が駐留している。しかし先述したように、ナショナリズムと言う精神力が無ければ、軍事力を使うことはできない。アメリカ軍はあくまでも自分の都合で日本に駐留しているだけなのであり、そもそも自分の国を自分で守ろうとする最低の精神力さえ持たない民族を、わざわざ守ってやろうとする気にはならないだろう。
日本人がナショナリズムを喪失している証拠は数々あるが、最も分かり易いのは歴史問題における対応であろう。一九八二年の第一次教科書事件に始まる、歴史問題を利用したシナ人・朝鮮人による対日攻撃は、近隣諸国条項・河野談話・村山談話を獲得して、ものの見事に成功した。この間唯一小泉首相が反撃を試みた靖国参拝も、結局不可能になってしまった。
したがって、現在我が国にナショナリズムが存在するとすれば、それはスポーツに関するもの限られる。野球・サッカーなどの国際試合では、日の丸を打ち振って熱心に応援しているが、所詮それは「スポーツだけナショナリズム」である。スポーツだけのナショナリズムでは、国家・民族を守ることはできない。
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