もちろん日本の過去を断罪する考え方は、戦後すぐの東京裁判史観に由来しており、その当時それを最も取り入れたのは、左翼の共産主義者であったことは確かであろう。アメリカ占領軍と共産党の蜜月時代である。戦争中に唯一戦争に反対しという実績が、最大のセールスポイントとなった。その後東西対立が明確化して、日本における共産革命の実現を目指す際にも、過去を断罪する史観は、その目的のために有効だとの戦略が、存在したと思われる。つまり過去を暗黒にして、日本人のナショナリズムを奪ったおいたほうが、過去を否定する革命がやりやすいと言う戦略である。
だから、どれほどその可能性があったかはともかく、もし日本で共産革命が実現していたら、共産党は日本そのものを、肯定的に捉えるようになっていたに違いない。たしか昔の共産党は、政権を握ったら憲法を改正して軍事力を保有すると、言っていたはずである。日本全体についても言えることであるが、当時の共産党のほうが、今よりずっとまともだったのだ。今の日本では、共産主義とナショナリズムは全く相反するものだと考えているが、世界的に見れば全く逆である。特にアジアにおいては、共産主義はナショナリズム、愛国主義と強固に結びついている。毛沢東しかり、ホーチミンしかり、金日成しかりである。ただし、私はナショナリストであるが、かつて共産主義に心酔したことは一度も無い。
したがって反日日本人の思想の源は、共産主義にあるのではなくて、別なものだと考えなければならない。そしてそれはやはり憲法九条に述べられた、空想的平和主義であり、
どんな戦争でも戦争はだめだと言う、盲目的な反戦主義である。敵に侵略されたら、侵略を防ぐためには、武力を振るって戦わざるを得ないのであり、絶対的反戦などそもそもありえない。こんなふやけた考え方が、リアリストである共産主義者の考えであるはずが無く、毛沢東の「政権は銃口から生まれる」と言う考え方こそ、共産主義者の思想である。
更に平和主義・反戦主義を支える根底には、偽善的考え方、偽善主義がある。偽善的な考え方そのものは、古今東西この世にはあまねく存在する。偽善とは自らを美しく見せるための、精神の虚飾である。それが歴史問題の場合では、自分は日本の過去を反省している良心的な人間だと、己を美しく飾ることによって自己満足するわけである。もちろん己一人で満足しているだけではそれほど問題にならないが、自己を美化する時に、比較の対象として、劣位の人間を設定することである。つまり歴史問題では、過去を反省しない駄目な人間がいるが、自分はそうではなく立派な人間だと自慢するのであり、その駄目な人間を批判・攻撃することによって、自身の優等性を確認するのである。
このような歴史問題における、自己美化の心理操作を常に行ってきた典型が、組織としては朝日新聞・岩波書店であり、個人としては大江健三郎・加藤周一である。革命幻想が潰えた以後の左翼勢力は、それに便乗したのである。このような偽善の病理は、さらに日本の指導者層にまで社会に広く浸透して、シナ人・朝鮮人の精神侵略が巨大な成功を収める、基本的な土壌を形成したのである。
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