- 2010年3月 7日 22:43
- 時評
朝日新聞がこの問題の根本的な背景にある、学校における服装規律を破壊した元凶であることは、前回指摘しておいた。その後の朝日新聞の報道振りは、基本的に国母擁護の路線で進み、それがさらに捻じ曲がっていったと言う事ができる。競技の行われる以前の2月17日と18日に、二日連続で投書欄である「声」で採り上げ、17日は批判と擁護を両方出していたが、18日は擁護のみになった。また18日には、重病に罹った時に、同選手の援助を受けて直ったという、スノーボードの先輩選手の話を紹介して、「まるで犯罪者扱いだ。そんなやつじゃないのに」と言わせている。
朝日の報道は次第にその本領を発揮してくる。8位になった競技後の19日には、「これが国母流」と題して、「表彰台には届かなかった。でも、注目していた多くの人々に、スノーボードの迫力と魅力は伝えた」「口べたな若者は、バンクーバー五輪で自らのスタイルを貫き通した」と褒め上げる。そして同記事のコメントでは、コラムニストの辛酸なめ子が、「今の社会には悪い人、悪そうな人に制裁を加えてスカットしたい気分があるのではないか」と、社会の不健康さの問題に摩り替える。つまり単なる国母擁護から、国母批判を行う社会に対する批判・攻撃に転じていっている。
この観点をより明確に打ち出したのが、同じ19日に載った、西村欣也・編集委員による、「息苦しい『魔女狩り』」という記事である。一連の騒動は「騒ぎ過ぎではなかったか。まるで『魔女狩り』だった」と断定し、「国母のファッションや言動に、僕も確かに違和感を感じる。でも、それに対して寛容でありたいと思う。価値観の押しつけは息苦しさしか生み出さない」とする。
3月になっても朝日はこの問題に熱心で、4日のオピニオン欄では、斉藤環という精科医が、変に難解な議論を展開している。まず「一連のメディアスクラムめいたバッシングは、かつてのイラク人質事件の騒ぎを彷彿させた」とあるから、すでに議論の方向は予想できる。この議論の中身は、こねくり回して極めて分かりにくいので省略する。
実はこの問題については、初期のころの朝日新聞の投書欄「声」の議論が、擁護するにしても、批判するにしても、ずっと素直で分かり易かったのである。2月18日の石埜穂高という53歳のコピーライターによる、「国母選手はスノーボード文化代表」という投書には、「私は、彼の服装は、スノーボード選手として『正しく』『かっこいい』ものだと思います。なぜなら、スノーボードはヒップホップ・カルチァーから生まれたスポーツで、競技の中だけでなくライフスタイル全体として「ヒップ」であることが求められるものと考えるからです」とある。根本的なところで勘違いしているのだが、まことに単純素朴な国母擁護論である。
批判した投書には、2月17日の浅野晴香という仙台市の22歳の学生による、「公私区別できる大人になって」がある。私が見た限りでは、この投書が朝日の投書ではあるが、今回の国母服装問題について述べられた、もっともまともな文章であると思う。女子学生は次のように言っている。「私は高校で『制服はきちんと着こなしている状態が一番美しい』と指導されたのを思い出した。当時はスカート丈やソックスなどの細かい規則に、たかが服装でそこまで厳しくする必要があるのか、先生の自己満足ではないのかと疑問だった。しかし今思えば、「美しく」着ること以外に、公私のけじめをつけることを教えられたのだろう。大学では私服だが、就職活動のスーツが乱れている人など見たことがない。大学生の自己(私)と社会人の卵としての自己(公)を区別できているのだ」
この22歳の女子学生は、服装における公私の区別、あるいはTPOということを、はっきり理解できるようになっている。一方、53歳になるコピーライターには、それが全く理解できない。ライフスタイル全体としてヒップを貫くなら、葬式の喪服でも、ユルユルネクタイ、裾だしワイシャツ、ズリ下げズボンの腰パンにしなければならなくなる。
葬式ではさすがにそこまでは行っていないが、教育の現場ではすでにその段階にまで堕落している。国母擁護論で目立ったのは、そのような服装は学校でも当たり前になっているというものである。それは本末転倒の議論であって、学校の現実が完全に間違っているのである。仙台の女子学生が優れているのは、学校の制服との正しい関連性に気付いている点である。前稿で述べたように、これこそが国母問題が提起した最大もポイントである。しかしそれは現在のところ、全く理解されていないようだ。
それにしても、朝日の報道態度は、まことに犯罪的である。まともな意見の存在を知りながら、それを無視して間違った方向に舵を切り、更には国母擁護から国母批判の批判に転じて、結局は朝日新聞のお家芸である日本バッシングに突き進むのである。朝日新聞の価値観の押し付けは、息苦しさどころか、とんでもない害毒を社会に生み出している。
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