- 2010年3月14日 20:59
- 時評
今から400年前と言えば西暦1600年頃、1600年はずばり関が原の戦いの年である。つまりこの直後に徳川幕府が開始され、それは長い戦国時代を豊臣秀吉が統一し、その事業を家康が継承して成立したものであった。その後の400年間は、江戸時代と明治維新以後が含まれている。歴史学で言うと、近世(江戸時代)と近代(明治から戦前まで)・現代(戦後)である。
その400年前は、西暦1200年前後だから鎌倉幕府という武家政権が成立した時期である。この400年間は、鎌倉時代・南北朝時代・室町時代・織豊時代が含まれているが、歴史学では中世と呼ばれている。ただし織豊時代は普通近世に入れる。この期間は、朝廷や寺社などの勢力が衰え、武士による統一的な封建国家が生み出される過程である。
更に400年前は、西暦800年頃になる。平安京への遷都が794年であるから、この400年間はすべて平安時代ということになる。一口に平安時代といっているが、平安時代は異常に長い期間であることが分かる。この中間、1000年前後が摂関政治の盛時で、紫式部が生きていた頃である。
更にまた400年前は西暦400年前後で、近畿地方で巨大古墳が作られていた頃である。これらの古墳は皇室の祖先が作ったと考えられ、大和朝廷を成立させていた。この400年間のちょうど中間に居るのが聖徳太子であり、太子が摂政になったのが593年、法隆寺の創建が607年である。つまりこの400年間の後半の200年間、とくにその更に後半の100年間つまり8世紀に、日本の律令国家は急速なスピードで形成されたのである。
平城京・平安京に先行する、日本における本格的な都城である藤原京への遷都が694年であって、平安遷都のちょうど100年前になる。この重要な100年間の中ごろに当たるのが、東大寺の大仏開眼で、752年のことである。
大規模古墳の建設より400年遡れば、西暦すなわちキリスト紀元の始めに到達する。文字のなかった当時の日本では、正確な年次は伝わらないが、シナの歴史書によって、紀元57年に「倭奴国王」が後漢の光武帝に使いを出して、印綬を受けたことが分かる。江戸時代に志賀島から出土した金印が、その現物だとされている。
この最初の400年の中間あたりに居るのが、例の卑弥呼である。卑弥呼は239年に、魏に使いを出している。その居住地である邪馬台国の所在が、九州か畿内か長らく論争があったが、最近は畿内説が有力になっている。
以上の400年区分の内、変化の無かったように見える平安時代は、実は日本の歴史の変化・進歩を考える場合、極めて重要な時代なのである。それは急速に成立した律令国家が、次第に崩壊し変質して別種の国家に成って行く過程である。その変化の目安は、土地制度としての荘園の成立と、軍事組織としての武士の出現である。この変化があったからこそ、律令国家がずっと続いたしシナ・朝鮮とは異なった、日本独自の国家に進化したのである。
私は以前、かなり保守的志向が強い人物から、西暦を使うのは欧米キリスト教徒への隷属だとの批判を受けたことがある。しかし、便利なものは便利である。歴史を理解する道具として使うのであり、別に精神奴隷になっているわけではない。
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