- 2010年5月20日 14:46
- 時評
ところで、第二次世界大戦の犠牲者数において、イギリスとフランスの犠牲者が案外少ないことは、余り注意されていない事実であると思う。それはとくに、第一次世界大戦の場合と比較してみると分かりやすい。第一次世界大戦と第二次世界大戦とは、部外者である日本人には、ピントこないかも知れないが、ヨーロッパの歴史で考えてみると、極めて密接な関係がある。まずこの二つの大戦の間は、約20年の間隔しかない。第一次大戦は1914年に始まって1918年に終わり、翌年19年にヴェルサイユ講和会議が開催された。それから20年後、1939年に第二次世界大戦は始まっている。第二次大戦後、もう65年も経ってしまったが、20年といえば日本では平成の御世、世界ではいわゆる冷戦崩壊後の期間に過ぎない。
また第一次大戦後のドイツに対する対処のまずさが、第二次大戦の原因になったといわれる。それは主としてフランスが、ドイツに対して厳しく当たり、高額の賠償金を課したり、国境地域での領土的野心を示したりしたことが、経済的な大混乱もあって、結局ドイツ人の反感を呼び、それを掬い上げたヒトラーが台頭したとされるからである。フランスがドイツにつらく当たった原因には、一つには約50年前の普仏戦争の惨敗への報復があったと思われる。フランスは、普仏戦争でドイツ領となったアルザスとローレーヌ(ドイツ語表現で、エルザスとロートリンゲン)を取り戻した。しかしもう一つには、第一次大戦におけるドイツと戦闘で、多大の犠牲者を出したことにあるだろう。
第一次大戦における、フランスの戦死者数は135万人位と言うことらしい。イギリスが90万人、ロシアが170万人で、対する同盟国側は、ドイツが180万弱、当時は帝国だったオーストリアが120万であるから、合わせて300万になる。同盟国側にとって、ロシアとの東部戦線と、フランス・イギリスとの西部戦線と、二正面の戦いがあるが、歴史地図で見るとよく分かるが、ロシア側にはかなり攻め込んだのに対して、西部戦線のフランスには殆ど攻め込んでいない。つまり膠着状態が続いたのであり、いわゆる「西部戦線異状なし」であった。大砲や機関銃などの火気が発達し、一進一退の塹壕戦が展開され、戦場は面積的に拡大しないが、膨大な戦死者を生み出したのである。
さて、フランスの現代史に関する概説書である、山川出版社の『フランス現代史』には、二つの大戦の戦死者数を、第一次が150万、第二次が50万と大雑把に書いてある。第一次より第二次のほうが、兵器も大幅に発達しているから犠牲者が多くなると、ふつう考えられるだろう。ドイツやロシア・ソ連の場合は、明らかにそうである。しかしフランスでは、第一次の方が第二次より、三倍も多いのである。実は、第二次の数字でふつうに出てくる数字は、さらにずっと少なく、50万の半分以下、21万とか24万といった数字である。とすれば、第一次が135万であるなら、数倍多いことになる。50万と言うのは、民間人を含めた数字なのかも知れない。この傾向は、イギリスもフランスと同じで、第一次の90万に対して、第二次は27万、35万、40万といった数字が出てくる。
では、このフランスとイギリスの、第一次大戦より第二次大戦の戦死者のほうが、遥かに少なという事実は、何を意味しているのだろうか。それは前稿で述べたことと、密接に関係するだろう。つまり、イギリスもフランスも、ナチスドイツと戦争したくなかったのである。それには第一次大戦の甚大な被害の記憶が、強く影響していたに違いない。したがって宣戦布告したにもかかわらず、攻撃に踏み切れなかった。そしてドイツに攻撃されて戦争が始まると、簡単に負けてしまった。だから戦死者が少ないのである。
現在、ギリシャの財政危機の問題で動揺しているEUは、多くの加盟国で構成されているが、根本的にドイツとフランスの提携によって成立している。その提携の理由は、フランスとドイツとでは、大きく異なっているだろう。フランスは、ドイツ人とは今後絶対に戦争したくないと考えたに違いない。他方、ドイツの方は、ナチスドイツの前科をもつ身として、親しい友人が是非とも必要だった。そこに両者の思惑が一致したのであろう。要するに、EUを創設させた最高の功労者は、ヒトラーと言えるかも知れない。
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