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死刑だけが国家権力による殺人ではない

  • Posted by: 中の人
  • 2010年8月 1日 09:58
  • 時評
100801.jpg 7月24日、千葉景子法務大臣が、死刑の執行命令書に署名し、28日に二人の死刑囚の死刑が執行された。同大臣は、以前から死刑廃止論者として知られ、在任中には死刑の執行は絶対に有り得ないと考えられていたから、今回の突然の執行は、大きな驚きをもって受け取られている。
 朝日新聞の報道によると、この心変わりは法務官僚による、粘り強い説得の成果であると言う。だとすれば菅総理大臣の場合の、財務官僚による教育によって、消費税大賛成に転じたのと、全く同一のパターンであり、ここでも政治主導の化けの皮が、見事に剥がれてしまったわけである。
 しかしそもそも、法務大臣が執行命令書に書名しないで、死刑確定者が溜まっていることこそが異常なのである。死刑確定者は、今回の二人を除いても、まだ107人も存在しいている。刑事訴訟法には、判決確定から六ヶ月以内に執行するように、定められているのだから、何のことはない、法治行政のトップにある法務大臣自ら、法律を守っていないのである。まことに笑うべきデタラメであり、それが自民党政権時代から、続いてきたのである。これでは我々は、まじめに法律を守ろうとする気になれない。

 今回の死刑執行について、死刑廃止の立場に立つ国際アムネスティーは、早速文句を付けてきているが、今日の世界における死刑の最大の問題点は、存続させるか全廃するかの問題ではなく、いかにして安易な死刑を減らすことができるかにある。つまりオールオアナッシングの問題ではなく、程度の問題である。今日の死刑に関する議論では、この重大ポイントが、余りにも見逃されている。日本の死刑では、何人も殺したような人間でなければ死刑にならないが、中共ではずっと軽度の犯罪でも、死刑にされてしまう。また中共では、いい加減な裁判によって、全くの冤罪でも死刑にされる例が結構あるに違いない。アムネスティーのような、絶対的死刑廃止論者は、中共の現実の死刑の状況を、かえって擁護することになっている。
 私が死刑に関する報道に接して、いつもオカシイナと思うことは、死刑が執行されたときに始めて、批判的に大騒ぎすることである。本当に死刑制度に反対であるなら、裁判で死刑判決が下されたときに、その裁判のあり方を批判しなければならないはずである。しかしマスコミは、そんなことはしない。死刑判決が出たときは、極刑を望む被害者の家族に同調して、正当な判決が出たかのように報道する。その死刑囚の死刑が執行されたときには、死刑が極めて不当であるかのよう騒ぎ立てるのである。マスコミは、被害者にしても死刑囚にしても、人の命は大切だとの人命尊重主義を、偽善的に歌い上げているだけなのである。
 死刑については、国家権力による殺人である、と言う批判がある。それは字義通りには、間違いないだろう。ただしそれは極めて重大な犯罪者に対する、刑罰として行われるのであって、善良な庶民に対して行われるのではない。しかし現在の日本では、善良な庶民が国家権力によって、大量に死に追いやられていることは、明確に認識されていないが、紛れも無い事実である。日本の年間の自殺者数が、それまでコンスタントに二万人台前半のレベルを維持していたのが、一挙に八千五百人増加して、三万人台に突入したのは、1998年・平成10年のことである。以後、十二年間それは継続し、今年も三万人を下らないと予想される。
 自殺者の急激な増加の原因は、経済的な要因しか考えられない。バブルの崩壊は約20年前だが、90年代の半ばまでは経済成長していた。しかしそれ以後、日本の経済成長は止まった。それが自殺者の急増に、ものの見事に現れているのである。日本経済の没落は、国家権力を握る無能な政治家・官僚による、疑うべくもない人災である。すなわち、国家権力による殺人に他ならない。ほんの僅かな極悪死刑囚の命にこだわりながら、膨大な無実の民の命に鈍感な日本人は、余りにも愚かだと言わなければならない。

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