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日本人の「戦争の反省」はいかにデタラメであるか

  • Posted by: 中の人
  • 2010年8月16日 19:40
  • 時評
100816.jpg 8月15日がやってきて、またマスコミにおける戦争関係の報道がにぎわっている。民主党政権になって、一人の閣僚も靖国神社に参拝しない事態が出現しているが、これは日本に対する精神侵略が完成し、更に駄目を押されたと状態と言うべきである。
 私の限られた印象であるが、今年のマスコミの戦争報道から感じられるのは、新聞は比較的地味で、テレビのほうが熱心ではないかと思われることである。特に新聞では、普通考えられるのとは逆で、朝日新聞が思いのほか低調であり、一方熱心なテレビの方では、NHKの報道量の多さが目に付いた。この理由は、一貫して精神侵略者の手先として活動してきた朝日新聞は、「精神侵略の完成」という日本の現実を適確に認識しているのに対して、NHKはまだそのあたりが良く分からずに、「戦争は悲惨だ」報道に邁進しているのだろう。

 私はNHKの戦争関係報道を、まともに見ているわけではないが、注目されたのが、特定の戦争番組を作成するだけでなく、一般のニュースや地域情報番組の中で、戦争に関する話題をさりげなく取り上げる手法である。これによって、「戦争は悲惨だ」「戦争は良くない」と言う固定観念が、視聴者の頭に植え付けられてゆくわけである。また子どもを積極的に利用する手法も、多用されていた。これは戦争を直接体験した人間も、次第に少なくなってゆくので、戦争の語り部の後継者を育てようとの魂胆であろう。
 現在の日本人が、戦争を最高の悪と考えたがるのは、戦争の被害が大きかったからであろう。確かに日本の歴史の中では、最大の被害であったのかも知れない。日本は歴史的に見て、対外的に孤立した国であり、近代以前の外国との戦争としては、外から攻められたのが元寇、日本から出て行ったのは朝鮮出兵があるくらいである。それがアメリカによって完璧に敗北させられて、歴史上はじめての占領支配を経験した。しかし戦争の被害については、情緒的な悲劇感情に浸りきっていないで、もう少し客観的に捉えてみる視点があっても良いのではないか。
 戦争の被害としては、他の国の戦争の被害と比べることもできるが、ある民族が体験した悲劇と考えれば、私が従来から関心をもっている、チベットの悲劇における人的な被害と比べてみるのも、意味があるであろう。日本の戦争の被害は、一般に軍人が200万人、民間人が100万人で合計300万人とされている。今の日本人の人口は1億2000万人あるが、当時の人口はずっと少なくて、昭和15年で7300万人ほどであるから、300万は人口の4パーセントである。
 ところでチベットは1950年、シナ人に侵略されて併合され、それによって120万人の人々が犠牲になったと、亡命政府は主張している。また当時の人口は、600万人であるというのが、亡命政府の主張である。とすれば600万の内の120万であるから、5人に一人、20パーセントの被害となる。つまり日本の戦争の被害の、ちょうど五倍の比率の犠牲者を出しているのである。つまりチベット人は、日本人が65年後の現在に至っても嘆き悲しみ憤る戦争の惨禍の、五倍もの悲劇を生きてきたのである。
 しかもチベットの悲劇は過去のものではなく、現在までも延々と続く紛れも無い現実である。侵略からの独立は達成されず、独立運動は残虐に弾圧されて、多くの犠牲者を生み出している。反省大好きの日本人が、本当に日本の過去を反省し、戦争を反省しているというのなら、このチベットの悲劇に黙っていられるはずが無い。しかしそうゆう人間ほど、シナ人に遠慮して口を噤むのである。要するに、毎年八月になると繰り返される、戦争の反省なるものは、完全にデタラメな茶番劇にすぎない。

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